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【掌編】遅れてきたバス

「くそっ、十分前かよ!」と、私は毒づいた。

バスの話だ。ほんの十分の差で、最終バスに間に合わなかった。

そこは陸の孤島めいた高台の住宅街で、時刻を考えると、タクシーは簡単には捕まりそうもない。だめもとで愛用の配車アプリを開くと、到着まで三十分という表示が出た。

三十分もここで無為に待つくらいなら、駅まで歩くか。コロナ禍で運動不足が極まっているし、ちょうどいい機会だ。

そう腹を決めて駅の方向へ踵を返したとき、煌々と輝くひと組のライトが背後から近づいてきた。やがてそれがバスだとわかる。

よかった、ツイてるぞ。どうやらバスが遅れてたらしい。

愛嬌のある四角い顔のバスが、億劫そうにプシュッという音を吐きながら停留所の前に停まった。蛇腹式のドアが滑らかに開く。私はひとつ息をついて、ステップを上がった。

「降り遅れましたね」と、運転手がぼそっと言う。

“降り遅れた”? 今そう言ったか?

まあ、きっと聞き間違いだろう。あえて確かめる必要もない。私は適当な愛想笑いで応じると、錆びの浮く機械から整理券をもぎ取って車内へと歩を進めた。バスが静かに走り出す。

右手の壁沿いに設らえられた長椅子の優先席に、客がふたり、顔を伏せて座っていた。母娘連れのようだ。まあ、がらがらだしな。今さら年寄りが乗ってくるとも思えない。それに傍目にはわからない病気を抱えている可能性もある。想像力を働かせなくては。それが思いやりというものだ。優先席は何も老身のためだけのものではない。

私はそんなことを考えながら母娘連れの前を通り過ぎ、その先の左側の一人がけシートに座った。ふう、とため息をつく。よかった。ひとまず駅までは戻れそうだ。

そのとき、あれ、と思う。車内に音楽が流れている。しかもこれはクラシック? ワルキューレの騎行か?

バスって、こんな音楽流したっけ? 普通は車内アナウンスだけでは?

と、バスが急に速度を上げた。私は座席で一瞬のけぞり、首の裏を少し打った。高台から駅へと向かう、長い下り坂の道だ。傾斜の後押しを得て、バスはどんどん加速していく。

「ちょっと、運転手さん。速すぎないですか?」と、私は思わず座席から怒鳴った。

だが運転手はどこ吹く風で、むしろさらにスピードを上げた。窓の外の暗闇が早送りのように流れていく。身の危険すら感じる速さだ。この運ちゃん、酔ってんのか? 私は席から立ち上がったが、道がカーブに差し掛かった瞬間、よろけてたたらを踏み、手近な座席のへりをつかんだ。

「お客さま、走行中は危険ですので、お席についていてください」とクラシックを押しのけ、運転手の声がスピーカー越しに車内に響いた。

同時にバスが大きく揺れた。母娘連れが優先席から投げ出され、床にごとりと倒れ込む。

「だいじょうぶで…」とふたりに声をかけようとして、私は息を呑んだ。ふたつの顔がこっちを見ていた。蒼白だ。蝋人形のように。虚ろなふた組の双眸がじっと睨んでくる。

息をしていない。

「だから言ったでしょう、“降り遅れましたね”って」と、運転手がスピーカー越しに苦笑しながら言う。

は? 何だって?

「長年の習慣でつい、停車してしまいました。本当に申し訳ない」

申し訳ない? なんで謝る?

「けど、もうご安心ください。この先はどこにも停まりませんので──」

次の瞬間、バスはガードレールを突き破り、どす黒い闇のなかへと飛び出した。

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