【読切短編:文字の風景③】神田川
私の中の神田川は、高田馬場を流れている。
高田馬場駅早稲田口から新目白通りに向かう道を横切って流れる、何の変哲も無い川。蔦の覆う堤防が川の周りを緑色に染め上げ、穏やかな水面には時折蔦の葉が落ちている。決して透き通っているとは言い難いが、よくよく見ると水底にある程度の水草が繁茂している様子もうかがえる。道沿いには桜の木が並び、遊歩道の脇には学生向けのアパートや病院がずらりと並ぶ。この川をずっと辿ると、隅田川と合流して海へ流れ出す。
あなたは、もう忘れたかしら。
そんな歌いだしで始まる名曲がある。神田川と言われたら、ある年代の人はこの歌が浮かぶのではないか。小さな石鹸がカラカラ鳴って、洗い髪が芯まで冷える。歌の時代背景に合わせ、昭和の香りが鼻をくすぐる。
私の中の神田川は、私の時代を流れている。
大学の春。田舎から東京の大学に進学した私にとって、高田馬場は大人と青春のあわいだった。学生と社会人。友達と恋人。仲間と孤独。責任と自由。本音と建前。
あなたは、もう忘れたかしら。
川に放り込まれた友人たち。夏場、蚊柱の立つ遊歩道。酔っぱらいながら見上げた夜空。行きつけのワインバル。オール明け、橋の上から何度も撮った朝焼け空。窓からみた桜。桜の下に立っていた人。
神田川は、神田川のままではいられない。
いつかは隅田川になり、海へと向かう。
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