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好きな本~『人間失格』

ふと思うことがある。
何故わたしは人として生まれたのだろうかと。

わたしは人として生まれた・・・
愛犬は犬として生まれた・・・

わたしは愛犬に、

「お前の魂は犬の体に入るのが一番適しているとなって、お前は犬として生まれたのかもな」

とぽつんと呟いた。

「ではわたしは人体に入るのが一番適した魂だったのかもな」

とまた呟いた。


真相はわからぬ。
運命だとか偶然だとか、もしくは運命も偶然も無いのかもしれん。
我々が気づいていないだけで、この世(宇宙)は、宇宙より更にもっと別世界の何者かによる単純な実験にすぎないのかもしれん。

SF物語ではなく、それは単に次元の違いなのだ。

よって真相はわからぬ。
説得力がある答えとすれば、

「わたしが人として生まれたのは、親が人だったからだ」

という子供のような答えとなるだろう。


わたしは太宰治が好きだ。
短編集も所持しているが、太宰作品を読み返すたびに、
「これは、現代作家ではなかなかに太刀打ち出来ぬ」と思うようなものばかり書いていることを思い知らされる。
太宰作品は、自分のメンタルがかなり好調な時にしか読めない。
それほどまでに、読み手を漆黒へ引きずり込む魅力、言い換えれば読み手を闇へ突き落とす恐ろしい力がある。


あの人は、人間の心の底の底にある部分、それこそ自分自身にしか見せないような魂の最下部を、「他者に読ませる文章」として正直に書いた人だ。
色々と煩くなった現代においてはあのような作品を「世に出す」というのは、作家にしても出版社にしても覚悟と勇気が必要なチャレンジになってしまうのかもしれない(夢野久作『ドグラ・マグラ』などもそれにあたるかもしれない)。


誰もが知っている太宰作品に名作の『人間失格』がある。
主人公は、人の心の恐ろしさに常に翻弄される人生を送る。
誰でもそれは経験があるが、それでも主人公は他の人間が世の中に順応している姿にさえ恐怖を覚える。
人間の恐ろしさ、そしてその恐ろしさに順応できてしまう人間の恐ろしさ
についていけない自分を、主人公は覚えるのだ。

人はそれを社会に順応できない、適応能力がないと判断するだろう。
そこに魂の清らかさなどは採点項目に入らない。
人間の恐ろしさを平気な顔で切り抜けられる人間こそ、彼らが認める仲間(人間)であり、その点において全く素朴な恐怖を覚える者は不適合であり、落第者なのだ。

それを述べているのがタイトルの『人間失格』、まさにそれを指していると思う。


『人間失格』の最後は、こう締めくくられる。

___いま自分には、幸も不幸もありません。ただ、いっさいがすぎていきます。



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