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多様性とは

「多様性が大事」
こんなフレーズを、年々耳にする機会が多くなってきている気がする。そこには「男女、LGBTQ、多文化、障害等々、色々なバックグラウンドを持った人が、共に個性を発揮して生きていこう」という社会の風潮の高まりが大きく影響しているのだと思う。そして、僕がひねくれているというのもあるが、心なしか、とりあえず、便乗するように「多様性多様性」と声高らかに謳っているような人も一定数いるような気がする。きっと、そのぐらい、この多様性というのは、多くの人が良いと思っている考え方であり、ある意味では耳当たりのいい言葉なのかもしれない。かくいう僕も「多様性が大事である」というフレーズに出会う度に、「そうだそうだ」と思っているところもある。それどころか、自分でも結構言っている気がするし、なんなら友達からは「君は多様性にうるさい人じゃん」と揶揄されたりもしている。
でも、ふと思う。
「多様性とは一体なんなのだろう」

多様性を辞書で調べると、「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと」とある。つまり、一律ではなく個性や変化を大事にする、それが多様性を大事にするということ。そう考えると、僕らは、辞書通りの意味で、きちんとこの言葉を使えているのだと思う。
ところがである。どこにもう一歩踏み込んだ瞬間、僕の場合、急にその答えが曖昧になる。その一歩とは、「何故、多様性を大事にすべきなのか」という問いである。

きっと、みんな、多様性が大事だということは、なんとなく直観的に感じていると思う。でも、その理由を明確に説明できる人はどれだけいるのだろうか。日本は島国であり、アイヌ等の先住民族の方々もいるが、基本的には単一言語で単一民族に極めて近い国なので、なかなか多民族国家の感覚を臨場感もって感じるといったことも難しかったりする。
ある日、何かのイベントの時に、あまりに何度も何度も熱く「多様性が大事だ」と言っていた人がいたので、思わず質問をしたことがある。
「なぜ、多様性を大事にすべきだと思いますか?」
すると、その人は自信満々にこう答えた。
「だって、そのほうが楽しいじゃん」
なるほどと思った。確かにそうだと思った。色んな人がのびのびと活躍出来ている世界の方が楽しいと思う。でも、同時にもやもやも残った。多様性を尊重しようとするのは、そのほうが「楽しいから」だけなのか。

きっと、その楽しいという感覚は、いわゆる、多様性における「相乗効果」に相当するのだと思う。「いわゆる」とは言ってはみたものの、これは僕が勝手に作った言葉である。各々が自分の個性を活かして最大限に力を発揮して生きることが、多様性における個人の「幸福効果」であるなら(これも僕が勝手作った)、その最大限に力を発揮した個々人が、お互いに良い影響を与えあって更に力を増していくというのが「相乗効果」である。
はじめに「何故、多様性が大事か」という問いが出た時に、僕はこの2つの効果が頭に浮かんだ。人権というものを考えてみても、もし、それぞれに個性があり、かつ全ての命が平等だとするなら、一人一人が幸福を目指すことが出来る環境があることは大切なことだと思う。一人一人が最大限に力を発揮できるということは、それは結果として社会全体の力になるわけで、更に、それが影響し合うことで相乗効果を生むなら、全体にとってもそんな素晴らしいことはない。
でも、なぜだろう。なぜか、それだけじゃ、どこか納得しきれない自分がいた。その答えだけじゃ何か足りないというか、どこか欠けているような感覚が残った。

その答えがわからないまま、しばらく時が経った。というか、そんな問いが浮かんだこともすっかり忘れていたように思う。ある日、たまたまダーウィンの「進化論」を読んでいた時のこと。その瞬間は、突然訪れた。「あぁ、そうか」と思った。徐々にもやもやが晴れていくのがわかった。本に直接そんなことは書いてなかったと記憶しているが、多様性には3つ目の大事な効果であるということに気が付いた。それが「安定効果」だった。

多様であると、何故「安定する」のか。これはリスクヘッジの話に繋がる。例えば、サッカーの例で考えてみる。もし「点数を取るのが最も重要だ」と言って、攻めが得意なフォワードのメンバーだけを集めてチームを作ったらどうなるか。ディフェンスが疎かになり、恐らくそのチームは負けるだろう。攻めが得意な人、守りが得な人、間を繋ぐのが得意な人がいて、はじめてそのチームは強いものになる。一方に傾けば傾くほど、その分リスクは増大し、逆に、多様であればあるほど、仮にその一つが上手くいかなくても、まわりはリカバリー出来るということになる。つまり、それはチームとしてのリスクヘッジでもあり、同時に強さでもある。もし、人類が一カ所に住み、一つの人種しかいなかったとしたらどうなるだろう。もし、そこで自然災害や何かが起こった時には、一瞬で絶滅してしまうだろう。だが、 様々な場所で様々な人がいることで、もし何かが起こったとしても、その影響を受けるのは 一部で済み、人類としては生き残ることが出来るということもあるかもしれない。これは、 個人というよりは、人類全体からみた効果であり、もちろん示し合わせてはいないが、もしかしたら、未来永劫種を残していこうとする、ある種の人間が持つ動物的本能のようなものなのかもしれない。

多様性には「幸福効果」があり、「相乗効果」があり、そして「安定効果」がある。それに気が付いて、はじめて僕は少しは自信をもって「多様性が大事」と言えるようになった気がする。そこまで来た時に、また、新たな問いがのこのことやってきた。
「じゃあ、どうすれば、多様性溢れる世界になるのか」

そもそも、どうやったら多様という考え方が存在し得るのか。そこには、「組織」や「チーム」 といった個の集まりを包括する概念が必要になるのだと思う。つまり、そこに2人以上の人がいて、それぞれに個性があって、それを認識し合うことで、はじめて「色々な人がいる」、そこに「多様性がある」ということを知るということである。もし仮に、自分の生きる世界に自分一人しかいなかったとしたら、そこには人間においての多様はないことになる。なぜなら、自分しかいなくて、個性を比べる相手がいないのだから。なので、多様が存在するには、相対するものがあり、比べる対象があり、その比べる対象を含めた組織やチームのような包括するものがあるということである。

考えてみれば、意図的ではなかったとしても、僕らは何かしらの「組織」のようなものには必ず属している。もしくは、属されてしまう。自分の場合を考えて見ても、友達という組織、会社という組織に属しているだけでなく、大きく捉えれば、家族という組織、日本国民という組織、地球人という組織、宇宙人という組織に属しているとも言える。組織に属するということは、そこには相対する人がいるということであり、相対する人がいるということは、そこには違いがあるということであり、それこそが、「多様」の正体である。

「多様性は組織のような包括概念の中でしか存在し得ない」
そう考えると、「どうすれば、多様性溢れる世界になるのか」と言う問いに対しても、それは、組織といった集合体の側面から考えていくのが自然なのかもしれない。では「どんな組織であれば多様性が溢れるのか」。もちろん、そこには絶対的な答えはないが、最も重要な要素として「理念」というものがあるように思う。

「理念」と言うと難しいかもしれないが、要するに、その組織はどこに向かおうとしているのかという旗印のことである。多様性といっても、それぞれが何でもかんでも好き勝手にやっていいというわけではない。各々が好き勝手にやれば、時に利害がぶつかってしまうこともあるわけで、その組織という共同体で生きる上ではある程度の守らねばならないルールが必要になる。それが、カップルであれば二人の中でのルールだし、家族であれば家族のルールだし、学校あれば校則だし、会社であれば就業規則だし、国であれば法律であり憲法なのだと思う。そのルールを決めるにしても、「どういう組織であるべきか」「どんな組織にしていきたいか」という方向性があってはじめて、どういうルールを作ればいいかが決まってくる。でないと、ルールの決めようもない。また「どんな環境を整備したらいいのか」「どんな仕組みを作ったらいいのか」「どんな風土を作ったらいいのか」など、旗印となる理念がなければ、やること全てが行き当たりばったりになってしまい、統制のない状態になってしまう。

では、一体、誰がその「理念」を作るのか。その「理念」を組織に向けて掲げる人は一体誰なのか。 それは、基本的には「リーダー」であると僕は思っている。もちろん慣習法のように、人々の生活の中でなんとなく出来ていく理念というかルールもあるとは思うし、ティール組織のように、そもそもリーダー不在の組織もある。でも、ティール組織で言えば、ある意味では、組織の構成員全員がリーダーとみなすこともできる。いずれにせよ、その組織における引っ張っていく立場の人を中心に作り、掲げていくものであると思っている。
そのリーダーは、どんなチームを作りたいのか、どんな組織を作りたいのか、どんな社会を作りたいのか、どんな世界を作りたいのか。その思想から生まれる方向性こそが理念である。 そして、その理念を実現するには、どんなルールが必要なのか。どんな環境を整備すべきなのか。どんな風土を醸成すべきなのか。理念と共にそれを実践していくための仕組みも必要となる。
「理念を掲げること」そして「その理念を実現するために組織の構成員が活躍できる環境を整えること」。きっと、この2つがリーダーにおける最も重要な仕事であり、オーバーに言えば、リーダーの仕事はこれに尽きると思っている。

組織を構成する一人一人が、自らの個性を認識し、それを最大限に発揮できること。そして、その最大限に力を発揮している構成員がお互いにいい影響を与え合えること。これが、自分の定義でいう、多様性の「幸福効果」であり「相乗効果」である。そして、この多様な状況こそが、組織全体として見た時にも、最大のパフォーマンスが出せている状態であると言えると思う。そのため、リーダーは理念を掲げ、これらの効果を最大にさせていくことを追求する必要がある。そう考えると、やはりリーダーには重大な責任が問われるとともに、それなりの資質が求められることになる。逆に言えば、それだけの人格と気概がある人以外はなれない、なってはいけないということなのかもしれない。なぜなら、それは組織のメンバーをはじめ、全体に影響することであるから。でも、そうは言っても、リーダーもまた一人の人間。 人間である以上、心があり、体がある。時にプレッシャーに押しつぶされてしまいそうな時もあると思う。そのため、リーダーが組織の一人一人のことを考え行動していくのはもちろんだが、そのリーダーを支えるという仕組みや風土といったものも大切になるのだと思う。とはいえ、尊敬されるリーダーでなければ支えたいとは思わないわけで、やはり人格というのはとても重要な要素なのかもしれない。

では、リーダーの役割が「理念」と「組織構成員のための環境整備」にあるのだとすれば、その構成員一人一人のあるべき姿はどんなものなのだろう。僕らはどうあればいいのだろう。そこには、大きく「自立」「正直(嘘をつかない)」「受容」の3つがあるような気がしている。なお、この部分については、グループウェア会社であるサイボウズさんの考え方から大いに影響を受けていることは、先に述べておきたいと思う。

「自立」というのは、読んで字のごとく「自らの足で立つ」ということ。言い換えれば、受動的ではなく、能動的であるとも言えるのかもしれない。人は誰しも幸せを求めているわけで、幸せの定義も人それぞれだとは思うが、もし仮に「自分の個性を最大限に発揮して楽しく生きること」とするならば、受動的であったらこの状態は実現するのは難しくなる。また、一人一人のパフォーマンスが全体のパフォーマンスになることを思うと、組織としても一人一人に「能動的であってほしい」と望むのは自然なことだと思う。でも、これは理想であることはわかっている。自立したくても出来ない子どもやお年寄り障害者の方々もいる。なので、なおさら、このチームや組織というものが重要になる。組織全体で支え合うという視点をもって、その中で少しでも自立度を高めていくことが大切になってくるのではないだろうか。

「正直」というのは、つまり、嘘をつかないこと。隠さないこと。嘘をついたり、隠したりするから、後に色々な問題になったりするわけで、そうしなければならないということは、そこには何かやましいことがあるということでもある。そもそも嘘をつくというのは、本心を隠す行為でもあるわけだから、「それぞれの個性を発揮する」という多様性の本質から遠ざかる行為に他ならない。とは言っても、「嘘をつく」というのは、個人的にはすごく人間っぽい行為な気がして、程度にもよるが、何だか愛おしさもある。また、何でもかんでも口に出して良いかと言えば、デリカシーの問題にも関わってくるので、その線引きというのは確かに難しいものではあるなと思う。

そして「受容」。多様性溢れる組織であるためには、お互いがそれぞれの個性を認める必要がある。100人いれば100通りの個性があるわけで、中には相容れない個性の人もいると思う。でも、そういった人も含めての多様性であって、自分にとって都合のいい人だけがいるわけではない。その時に、積極的に認めたり、承認したりすることは難しくても、同じ組織にいる以上、「受容する」ということはしていく必要がある。生き方も、考え方も全然同意できないけど、世界にはそういう人もいて、それぞれの正義に従って生きていて、そこに絶対の正しさがない以上、それは否定出来るものではない。

僕も、色んな組織に属している構成員の一人ではあるので、未熟ではあるが、無意識の部分もあるが、これら3つを実践していっているような気もする。でもやっぱり「嘘をつかない」 という部分においては、比較的よくなってきているが、まだまだだと思う。「相手を傷つけたくないから」みたいな理由で嘘をついたりもするわけだが、それは単純に、「相手を傷つけてしまっている自分が嫌なだけ」であり、「嫌われたくない」みたいなところもあるのだと思う。もしかしたら、そんな自分を許すように嘘をつくことを「愛おしい」なんて言っているのかもしれない。

では、自分がどこまで出来ているかは別として、「自立」していて、「正直」で、相手を「受容」出来る人になるためには、果たしてどんなことが必要になるのだろう。僕は、そこには、「自己肯定感」や「自己効力感」といったようなものが必要になってくるのではないかと思っている。

自己肯定感とは、「ありのままの自分を受け入れ、尊重する感覚」のことであり、自己効力感とは、「自分が行うことは効力があると信じられる感覚」のことである。非常に似た意味ではあるが、自己肯定感が自分の価値をポジティブに捉えることであるなら、自己効力感は 「自分には出来る」と思える、「自信」のようなものかもしれない。自分を受け入れること。自分の中の好きなところ嫌いなところ、それぞれあると思うが、それを自分の個性として自ら尊重すること。そして、自信を持って物事に取り組むこと。全てが上手くいくなんてことはないとわかった上で、それでも上手くいくという希望をもって取り組むこと。これらの力は、生きていく中で、何をするにしても必要となるベースの力となるように思う。

また、他にも「非認知能力」というものもある。「数がわかる」「字が書ける」など、IQで測れる力を「認知能力」と呼ぶなら、「失敗から学ぶ」「人と協力する」「自分で考える」「違う価値観を柔軟に受け止める」「新しい発想をする」など、IQでは測れない力を「非認知能力」と呼ぶ。近年、教育においても、この非認知能力が注目されているが、これからさらに多様で複雑になっていく世界を生きる上では、基礎となる認知能力はもちろんのこと、それ以上に、この非認知能力が必要となることは、僕らの感覚としても理解できるように思う。

だとしたら、一体どうしたら、その「自己肯定感」や「自己効力感」や「非認知能力」を高めることが出来るのか。きっと、そこには「安心安全な環境」や「チャレンジできる環境」 といった環境整備というキーワードがあるような気がしている。

まずは「安心安全な環境」が何よりも重要であると思っている。自分自身を受け入れためには、 心身が脅かされない場所を確保することが必要である。命の危険があるような状況や、いつも誰かに批判、批難、否定されるような環境であっては、ありのままの自分を受け入れることなどできない。むしろ、その状況下においては、「自分は何もできないダメなやつ」と思ってしまい、ますます自己肯定感が下がっていく。安心して自分を出すことができ、どんな自分でも受け入れてもらえる環境こそが、全ての人に必要といっても過言ではないように思う。

そして、その安心安全が担保された上で、「チャレンジできる環境」があることが大切である。自信を持てるようになるためには、成功体験の積み重ねが重要であり、それが大きい成功であれ小さい成功であれ、成功を勝ち取るためには必ずチャレンジをしなければならない。チャレンジするということは、もちろん失敗する可能性もあるわけで、失敗して立ち直れなくなってしまっては元も子もない。失敗しても再び前を向けるよう、背中を押したり、チャレンジした行為そのものを褒め合ったりできる環境が必要である。また、「お金がない」「アイデアはあるけど技術がない」「理不尽なルールで規制されている」など、チャレンジそのものが出来ない環境であることもある。そこについては、クラウドファンディング等のテクノロジーも大いに活用して可能な限りその障壁になっているものを排除していく必要はあると思う。

では、これらの環境を整備するのは一体誰の役目なのだろうか。それも、基本的には、その組織におけるリーダーの仕事だと思っている。直接的にリーダーがやらなくても、旗振り役はやはりリーダーになるだろう。そもそも、自分でその環境が作れないから、その人は自己肯定感や自己効力感が低いわけで、最初は周りがその環境を整備してあげる必要がある。ある程度、自己肯定 感等が高まってくれば、自ら知識を得たり、経験を積めるようになり、それがまた自己肯定感の増強につながるという良いスパイラルを生めるようになる。そこまでは、周りが丁寧に環境を作るべきだと思う。それは、ある意味ではノブレスオブリージュ、つまり、高貴なる者の義務、これを僕は「持てる者の義務」と訳しているが、持てる者、豊かな者が果たすべき義務でもあると僕は思っている。これは、決して相手の為だけではない。与えることは得ることでもあり、既に言ってきたとおり、多様性は強さでもある。つまりチームのためでもあり、自分の為でもあるということである。

よく、日本人は自己肯定感が低いと言われている。それは、言ってみれば、これらの環境が整っていないということがあるのかもしれない。「失敗すると再度チャレンジしにくいこと」 や「仲間外れにならないために同じ行動をとること」、「自己主張をしない謙遜さを良しとす ること」など、恥じを起因とする日本の文化、風潮に基づくものも大いにあるが、「親の虐待」「いじめ」「教師による指導」など、人為的な原因によってもたらされている部分も大きい。それも、見方を変えれば、虐待を生み出す「環境」が、いじめを生み出す「環境」が、 不適切な指導をしてしまう「環境」がそうさせてしまっているとも言えるのかもしれない。 きっと、多くの人はやりたくてやっているわけではないのだと思う。むしろ、そんなことをしたくないのにやってしまう自分を責めてしまうということの方が多いのかもしれない。 だから、全てを環境のせいにするのも違うと思うが、全てを自己責任にするのも違う。特に、リーダーをはじめとする周りの人は、一度自己責任論を封印し、徹底的に環境整備に務める 、そんなことが必要のように思う。


こうして、人類における多様性について考えてきたが、ここで、ふと、あることに気が付く。
「多様性は人類の話だけではない」
よくよく考えてみればそれは当たり前の話で、犬をみてみても、色々な犬種がいて、花をみてみても、色々な種類の花があるように、一言に「犬」「花」といっても、その種の中にも多様性がある。また、同じポメラニアンでも、それぞれ毛色も、大きさも、性格も異なる 。なにも、多様性は人間の話だけではないのである。パンダにも、稲にも、大腸菌にも、バクテリアにも、全ての生物の中に多様性がある。そして、食物連鎖等を考えてみてもわかるが、全ての生物の命は繋がっていて、一種単独では一日たりとも生きていくことはできない。当たり前だが、この自然豊かな地球は人間だけのものではなく、人間もまた動物の一種であり、生物の一員なのであり、様々な生物と共に共生していく他、生きる術は持っていない。

「生物多様性」という概念がある。これは生き物たちの豊かな個性と繋がりを表す言葉であり、 比較的最近の1985年に作られたものである。もともと、生物は多様であるのに、何故、改めてこんな言葉が生まれたのだろう。その背景には、地球環境に対する危機感があったからである。人類は、特に20世紀後半から、世界の各地で急激な自然破壊をもたらし、様々な環境問題を引き起こしてきた。それに伴い、多くの生物を減少、絶命に追い込み、生物における多様性を大きく損なってきたのである。改めて「生物多様性」などど言いはじめたのは、 人類自らが作ったこの現状を認識し、解決していこうという意思がそこにあったからである。

この自然は人類の為だけにあるものではない。地球が誕生した40億年も昔から、様々な生物が世代を重ね、親から子へと引き継ぎながら、多様な豊かな環境を作りだしてきたのである。それを人類が誕生してからわずか6500万年で、もっと言えば、産業革命が起こってからの数百年で、僕らは、毎年1000〜10000種の生物を絶滅させ、自然を食い尽くそうとしている。大事なことなので、もう一度言う。この自然溢れる地球は人間だけのものではない。僕らは自然の多大なる恩恵をなしにして、何一つ作り出すことは出来ず、一日たりとも生きていくことが出来ない。生命の多くは、人間の利害とは関係なく生まれ、壮大な多様性を生みながら脈々と受け継がれてきたのである。それを、パッと突然出の人類が、我が物顔で搾取していくというのは、それはやっぱり不自然なことのように思う。果たして、僕らは、そんな権利を有しているのだろうか。

現在、危機的状況である気候変動の問題は、人類をはじめ、多様な生物に影響を及ぼしている。そして、これは人類がもたらしていると考えられている。気候変動を引き起こしている一番の大きな要因である地球温暖化は、化石燃料を燃やす際に排出される二酸化炭素や、家畜のげっぷで発生するメタンガスなどを原因とした温室効果ガスの増加によるものであり、僕らの社会生活において大きく生み出されてきたものである。また、その温暖化を原因として、洪水や干ばつ、豪雨、氷床の融解による海面上昇、利用可能な水の減少、感染症の拡大など、さまざま な自然災害が引き起こされている。おそらく僕ら人類は、幸せを求めて、豊かになろうとして、 ここまでやってきたのだと思うが、結果として、自然との共生関係を壊すだけでなく、自らの首を絞めるという行為をしてきたのである。それでもなお、臭い物には蓋をして、見て見ぬふりをし続けようとしている。もちろん、僕のこの生活も、テクノロジーや経済の恩恵を大いに受けているわけで、自然からの搾取の上に成り立っていることはわかっている。そして、間違いなく、その自然破壊に加担している一員でもある。だから、もちろん偉そうなことを言える立場でないことは百も承知である。それでも、多少なりとも、その事実に気づいてしまった人間として、何かやらなければならないことはあるような気はしている。

では、一体人間はどんな生活をしていくべきなのか。
どこまでも自然に、動物的に生きることがいいのかと言えば、それも違うような気がしている。知的好奇心や、理性や知性、道徳心といったものは、ある意味、人間の持つ大きな特徴であり、そこから生まれるテクノロジーの進化などを完全否定することは、人間らしさを失うことでもあり、そもそも完全に失うということはできない。そのバランスは別としても、どうやっても僕ら人間は理性と動物的本能の両方を持ち得てしまうのである。でも、やはり、少なくとも、今のこの人間の社会生活が、ちょっと行き過ぎていると思うのは僕だけではないと思う。どうしても、これが人間のあるべき姿とは思えないのである。
欲が知性を生み出し、その知性が更に欲を掻き立てるという仕組みなのかもしれないが、それは良くも悪くも「人間らしさ」である。なので、それを受け入れた上で、人間が生みだすテクノロジーなどを用いて、どこまで自然と寄り添えるのか、寄り添おうとするのか、そこにこそ、人間の理性、知性、道徳心を費やすべきだと僕は思う。

この5億年で、地球上の生命は5度の大量絶滅を経験したと言われている。過去の5回については、気候変動、氷河期、火山の噴火、隕石など原因は様々だが、自然が原因として起こったものである。そして、現在、僕らは6度目の大量絶滅を迎えている。この6度目の原因は、言わずもがな、人類が作り出したものである。でも、これを知った時に、僕は思った。「5回も大量絶滅が起こってもなお、その度に、生物は多様に向かおうとしている」と。そんな姿を見ていると、きっと、多様に向かおうとすることは実に自然の摂理なのではないかと思う。あくまでも、僕の憶測の範囲を超えないが、前述したとおり、多様性がリスクヘッジだとするなら、地球は自らを守るために、多様に向かおうとするのがデフォルトな姿なのではないだろうか。もちろん、多様性という考え方そのものは、人間が生み出したものであり、 自然は別に多様に向かおうとして生きているのではなく、利己的に生きた結果として多様になっていったというだけのことだとは思う。でも、その自然のあり方を習うなら、人類もまた多様の方向に進もうとすることは、自然なことのような気がしている。


23歳の時だっただろうか。以前務めていた会社の同僚にこんなことを言われたことがあった。 「どっちが本当の君なの?」
そのどっちというのは、「真面目な時の君とふざけている時の君はどっちが本当の君なの?」 という意味だった。その時、僕は、うーんと一瞬考えてはみたが、すぐさまこう答えた。
「わからない。どっちも本当の僕だと思うよ」
ふいに出た答えではあったが、今振り返ってみても、適切な答えだったと思う。確かに、真面目に取り組んでいる時の自分と、おちゃらけている時の自分に大きなギャップはあるのかもしれない。もちろん、それは僕の意図するところではないが、他の人にもそんなようなことを言われたことがある。
どっちが本当の自分なのか。それは決めなければいけないことなのだろうか。僕は、どんなに考えてみても、そんなことは決められなかった。第一、本当の自分とは一体何なのだろう。もし仮にそれあるのだとすれば、他の人は、それをどうやって決めたのだろう。それ以外の自分が出てきた時は、本当の自分じゃないから、何かを偽っている気分になっているのだろうか。

「自分はこういう性格です」というフレーズはよく聞くし、面接などにおいては、自己紹介で自分をのことを話さなければならないシーンもある。僕の場合だったら、たぶん「好奇心が旺盛です」とか「抽象的に考えるのが得意です」とか言うのかもしれない。でも、こういう場面になると毎回思う。
「もちろん、好奇心がない時もあるし、目の前の具体的なことに集中する時もあるから、そう言った意味では、本当は、好奇心旺盛でもないし、抽象的思考もちゃんとできてないのかも」と。
そう考えると、当たり前だが、常にその状態であるわけではない。「元気が取り得です」という人も、時には元気がないこともあるだろうし、「ポジティブです」と言う人が、ネガティブにな る瞬間だってあるだろう。その場合、元気がない時は、ネガティブな時は、自分を偽っているということなのだろうか。そんなことはない。誰もが色んな側面を持っていることが通常であり、そこに本当も偽りもない。 ただ、どっちの側面が出る機会が多いのか、どっちの自分が好きなのかという、確率であり、嗜好の話に過ぎない。好きなものでも、毎日食べれば飽きるように、状況が変われば、それに対する反応も変わる。大好きな人と一緒にいても、天気が違えば、場所が違えば、 体調が違えば、タイミングが違えば抱く感情も、表に出る表情も異なる。なので、性格や趣味嗜好なんてものは、決して一つに定まるものではなく、色々な状況、関係性に応じて変わるものであり、たまたまその自分が出てくる確率が高く、かつその自分が好きだったりして、それを「自分らしさ」と呼んでいるだけのことのような気がしている。

だから、僕は、一人の人間の中にも色々な側面がある、つまり一個人の中にも「多様性」がある と思っている。一つの人格の中に、様々な自分の側面があるだけなので、多重人格とまでは言わないが、多くの個人の中で多くの自己を抱えていると言うことが出来ると思う。そして、それは実に自然なことであり、状況によってそれが変わることを考えれば、常に性格は変わり続けているとも言えるし、その中で時に矛盾が生じてしまうというのは、当たり前のことなのではないだろうか。でも、人は、相手を把握したいと思うが故に、もしくは把握してもらいと思うが故に、その複雑な性格というものを無理矢理整理して、相手を、自分を管理しようとする。それが良いとか悪いとかという話ではない。それもまた人間のもつ理性や知性の一部だということである。


ここまで、長々と自分が思う多様性について述べてきた。人類における多様性、自然や他の生物も含めた生物多様性、そして、個における多様性。18歳の時に「優しさとは何だろう」という、ある種の哲学的な問いを抱くようになってから、どこか、この世界の全てを説明できる、何かキーワードというか、概念を探していたような気がする。もちろん、これから、また変わっていく可能性は大いにあるが、この「多様性」というのは、全ての物事に串刺し出来るぐらいの耐性をもつ強力な概念の一つのような気がしている。

でも、不思議に思う。もし、多様性が実に自然で、目指すべき姿だとするなら、何故、人類はもっと目指そうとしないのか。そこには、きっと、デメリットがあるからなのだと思う。それは、意思決定に時間がかかる、相反する個性がぶつかった時にどう対応するのか、全てを同時に尊重出来ない場合どう優先順位をつけていくのか、多様を尊重することはそれだけ細やかな制度が必要に なるのでコストがかかり手続きが煩雑になる、利権を持っていた人たちが分散されることによってそれを失ってしまうなど、挙げればきりがないのだろう。でも、考えてみれば、これらのデメリットもまた、基本的には合理性や効率化を守るためのものである。本来は複雑なものであるものを、管理のしやすさのために、人間が知性を使って行ってきたものである。もちろん、合理性、効率化を必ずしも否定するものではなく、人間である以上それを使っていくこともまた人間らしいことだと思う。なので、その人間の理性を、知性をいかに使うのか、いかに自然に沿う形で使うのか、そのことが大事なのだと思う。

「全ては関係性」
多様性を考えていくと、最後はそこに辿り着く。一つだけでは多様になり得ず、複数あってはじめて違いを認識し、そこに多様という概念が生まれる。言うなれば、関係の数だけ多様が広がるということ。そして、人類と自然の関係のように、僕らは全てのものと全くの関係を持たずして生きていくことは出来ない。つまり、この世界は既に関係性に溢れていて、既に多様であるということ。僕らがすべきことは、シンプルに、そこに気が付き、そこに寄り添おうとすること。それは、理性を持った人類として、ある程度、意図的にやっていく必要はあるのかもしれない。

ここまで考えてきて、一つ、自分の中で、なかなか答えが出ないことがある。自然界においては、自然淘汰が起こりながらも、全体としては多様が広がっている。その状況で生き延びられないものは滅び、対応出来たものが変化を続け、生き延びる。それはつまり、絶滅するペースよりも、その状況を生き抜ける種が増えていくペースが速いということなんだと思う。じゃあ、もしそれを人間界で考えるとどうなるのだろうか。時代と共に産業の発展と衰退が起こることなどは、ある意味、自然淘汰の範囲だと思う。でも、それによって、果たして多様は広がっているのだろうか。言葉が適切ではないことは承知で、意図的にある種その弱い方の立場を守ろうとすることは、見方によっては自然淘汰とは逆行することであり、それは多様性を守るということを意味するのだろうか。それは、どちらかと言えば自然なことというよりは、ノブレスオブリージュや人間の道徳心、思いやりによるものではないだろうか。単純に人類における歴史と地球の歴史の長さが全く異なるから、同じように当てはめることが出来ないだけかもしれないし、やはり人間には理性や知性があるという部分で、全く同じようには考えられないのかもしれない。でも、きっと、よりよく生きるヒントは自然の中にあると思う。なにせ、僕ら人間もまた、その自然の一部なのだから。


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