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体育嫌い

みなさん、体育の授業は嫌いでしたか?

私は嫌いでした!

でも私は運動が苦手ではなかったですし、中学は運動部の部活もやっていました。

体格はそこそこある方で、部活のおかげで基礎体力は平均以上にあり、得意な種目も一部ありましたが、それでも嫌いでした。

なぜ自分でもそこまで嫌いだったのか、学校を卒業してもすぐには分かりませんでしたが、ふと「体育」の授業が目指すべきところは何だったんだろう?と考える時があり、そこから気づいたことがあります。

 

体育は軍隊の教練から始まった


体育の歴史は、第一次世界大戦の頃、国が強い人材を作るために教育に取り入れられた、要は軍隊の教練が発祥となります。

つまり目標は「勝つこと」なので、体育というものの中に勝ちにこだわる方向付けが内包されていて、必ず勝敗を決めるようになっています。
球技大会、マラソン大会、体育祭、すべてそうでしたよね。

とはいえ、戦前からの教育方針がそのまま現代まで続いているわけではなく、約10年おきに学習指導要綱というものが見直されているのですが、内容が非常に分かりづらく、調べても何が変わったのか分かりませんでした。

そして、2019年に発表されたスポーツ庁の調査では、1980年代をピークに、平成時代ずっと子供の体力は下がり続けていることが分かりました。

このようにあまり目に見える成果もないまま、名目だけは現代的に変わっても、本質的には以前と同じような教育が続いているように見えます。

若い先生は、まだ旧態依然の軍隊式の体育が行われている現場に戸惑っているんです。おそらく厳しい体育を是とする世代がまだ上にいるのでしょう。

私が体育の授業を受けたのはもう何十年も前ですが、その頃とあまり変わらない内容という印象を受け、体育の教育に関係する人々はいったいその間何をしていたんだろう?とちょっと怖くなりました。

 

私の「体育」体験


私は体育で「教わる」という体験をした記憶がありません。

体力の測定、グループ分けから、順位付けまたは選抜の後、競技・試合を行い、その結果で成績がつけられるという流れがあり、選抜されるかどうかがすべてだったように思います。

当時の公立の中学校以上ではこのようなシステムになっていました。
今はどうなんでしょう?

①  初めに、身体能力と運動能力のある人を選抜する
②  能力の上から順に優先的に競技に参加する
③  運動能力上位層は部活動と体育の区別なく、勝利を目指して努力する
④  運動能力中位以下は、上位層の競技成立のために存在する

他の科目は、教わる→身に付ける→確認する というステップがあり、個人で努力のしようがあるのですが、体育はそれがなくただ素のままいきなり授業が始まり、基準に届かなければ④の控えの立場に甘んじる。

そのため、どこでもあった風景だと思いますが、一部のスポーツエリートが毎回選ばれ脚光を浴び、その他大勢はやることもなく突っ立っているだけ。
授業に出ていればまだいいほうで、仮病やさぼりで不在な人もいました。

また、うまく出来ないことが許されない空気というか、「やる気がない」という評価になるのは困りました。がんばっても出来ないことはあります。

そのような素質重視過ぎて学ぶことがないやり方にどうしてもなじめず、私は体育が嫌いになったんだ、と理解できました。

 


「体育」の目的を変えたほうがいい


ではなぜそのような、素質重視の選抜式体育の授業が行われてしまうのでしょうか?

それは、目的設定の間違いによる問題だと思います。

最初に体育が軍隊の教練から始まったとお伝えしましたが、目的の設定がその名残で勝ちの追求に偏っているのだと思います。

その流れをいったん完全になくし別の目的を設定したほうがいい。
いや、勝ちにこだわる教育があってもいいのですが、そうではない教育も同時にあったほうがいいということです。

 

たとえばこういうことです。

「体育」を、「競争的なカリキュラム」「健康づくりのカリキュラム」「座学」の3つに分け、「競争」と「健康」を選択制にする。好きな人は両方やればいい。

・競争的なカリキュラム
能力の測定、競技の動き習得、ルールを学ぶ、チーム競技と個人競技の違いを知る、ゲームや競技を行う、結果から学ぶ

・健康づくりのカリキュラム
人間に必要な健康レベルを知る、それを保つ動きを学ぶ、楽しみ方を知る、継続する方法を学ぶ、効果測定する

私は自転車でゆっくり長時間走るのが好きなのですが、競走には興味がないので、自転車による心拍数上昇やカロリー消費、ポタリングの楽しさ、それによる肉体的・精神的な効果などを学べれば、一生の趣味として楽しめて健康も維持できると思います。

そんな授業なら受けたかったし、きっと楽しいですよね。

 

体育嫌いという根深いトラウマを抱える不幸な人を、いまだに体育の授業が量産してしまっているとしたら、それは非常に大きな問題です。

かなり思い切った変化でそのような不毛な教育をなくし、運動ができる子はより能力を伸ばせて、普通または得意ではない子も、体を動かす必要性や楽しさを知ることができる場に変えられたらいいですね。


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