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「過去型」と「未来型」~三宅香帆さん『バズる文章教室』を読みながら


 少し大きめの書店に行くと、必ず足が向いてしまうのが、文章や小説の書き方についての本が集まるコーナーである。つい先日も、なにげなく足を向けたジュンク堂書店で、平置きされていたこの本を見つけてしまった。

 「バズる」…つまりは、ネットなどで爆発的に広まること、認知されること。私自身、文章書きの端くれとして、夢見ても見足りない現象である。

 即座に購入したのは言うまでもない。今日も出勤中の電車の中やら、時間を見つけては開いて読み進めた。

 その中で気になった下りを一つ紹介しよう。


「作家さんだけではなく、文章を書く人は全員(もちろんあなたも含めて)、『過去型』と『未来型』の2タイプに分類されます」

 この後にこの二つのタイプの特徴が言及される。

 「過去型」は、「心の中の森を探索するかのように、過去を改装しながら書き出す」。森鴎外が典型例。

 そして「未来型」は、「まだ存在しないことを想像して、出来事や誰かの『これから』を書き出す」。こちらの代表例は夏目漱石。


 確かに、夏目漱石の『草枕』の書き出しは、「山路を登りながら、こう考えた」。「山道を登っている」、という今からスタートする。

 「今」というまっさらなスタート地点に、一本ずつ柱を立てたり、道を作って伸ばしていったり、そんなイメージだろうか。

 逆に鴎外はと見れば、『舞姫』の最初の数行を読んでみると、「(今から)五年前」の出来事を語っている。すでに完結して、結末も分かっている出来事についての話なのだ。

 時間をおいているからこそ、当時はわからなかった情報も併せ、客観的に見渡すことができる。

「どうしてこうなったのか?」

 現状に至る原因へ、根本へと分け入っていくそのやり方は、確かに「医者」にも通じるものがある。

 では、私自身はどちらだろう。

 考えに考え、出した結論は「過去型」だった。

 美術コラムを書いていても、作者について調べていても、気になるのは、「なぜこのような表現をしたのか」「なぜこの作品を制作したのか」「何が、この人の原点にあるのか」という謎である。

 「巨匠」という雲の上のようにも感じられる人々を、形作ったものとは一体何なのだろう。何が、彼らを高みに押し上げたのだろう。何故、彼らは苦悩しながらも、制作を続けたのだろう。

 そのプロセスに触れたい。できるだけ近くで。

 膨大な時の流れの中で、一瞬を掬い取り、それについて書き留めたい。そう思う。

 私は長く「小説を書きたい」と切望しながら、未だに具体的な題材が見つけられないでいる。

 最近、思うのは、クリエイターについて書きたいのかもしれない、ということだ。

 一番書きたい題材はミケランジェロ。日本なら、狩野永徳。長谷川等伯。それぞれに、自分のおかれた状況の中で必死に生き、ぶつかり合い、傷を負い、時に負わせながら、生きた証としての作品を残した。

 その「瞬間」を追いかけたい。

 

 そんな気づきのきっかけになった、『バズる文章教室』。

 もう少し読み進めてみよう。

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