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2冊目『本は10冊同時に読め!』/成毛眞

 時折、友人がボヤく。
「本を読む時間がない」
「ほほう、なるほど。つまり読書の時間が取れないほど、仕事が忙しいということか」と推測した後に「あれ? でもこの前、TSUTAYAで『キングダム』借りたって言ってなかったっけ? 読まずに返したの?」と問うたら、「いや『キングダム』は読んだ。めっちゃ面白かった」とのこと。なんだ。じゃあ、本読む時間あるんじゃん。
「本は本でも漫画じゃなくて……」と、友人は至極深刻な声音で更にボヤく。
 曰く、小説とかエッセイとか、詰まる所『活字』を読むのに費やす時間がないらしい。もう何ヶ月も前に読み始めた小説が未だに読了できず、積読本が溜まる一方なのだとか。なるほど、そういうことか。じゃあ、ソシャゲに興じる時間を読書時間に変換したらどうだ。一向に出る気配のないSSRキャラを追い求めるのを止めれば、積読本の山が少しは減るんじゃないの? ……と思った。しかし、私は敢えて、にっこりと微笑みを浮かべるだけにした。
 そんな私も、又吉大先生の『火花』がなかなか読み終わらなくて困ったものだった。けれど、そういう時、私は浮気をした。甘い菓子を食べていたら塩っぱい菓子が食べたくなって、その衝動に素直に従うように。ある一冊が進まなくなって読み終えられなくなったら、それには一旦見切りをつけて、別の本に手を出したのである。

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 読書に関する書物は山ほどある。本書はタイトルから「10冊並行読書しろ」と強く主張している。
 この本を手にした当時の私は興味半分、カチンと苛立つ半分だった。何故、十冊読めと命じられねばならぬのか。納得がいかなかった。どんな本を何冊読むかは、個人の自由だろう。この頃に読んでいた冊数は絶対一冊だった。『一冊読み終えなければ次には行けない、破ったら死ぬ』という呪いにかかっていた。なかなか強力な呪いだった。
 何故、そんな呪いにかかっていたのかは分からない。けれど、一種の責任感だったのだ。
「一度決めたら、やり遂げる」
 この信念に基づいた読書だったのだ。それを真っ向から否定された。腹立たしいにもほどがあるってもんだ。私は本書を壁に投げつけようとした。が、出来なかった。身銭を費やして買った本なのだ。雑に扱って傷物にしたくなかった。
 非常に悔しいことに、本書内で書かれている内容に酷く共感できる箇所もあるのだった。
 他人と同じ行動をとるのは如何なものかという一文を読んだ途端、私の脳内に、ネモフィラ畑に群がるカメラ親父とインスタグラマーが浮かんだ。テレビ画面で彼らを眺めながら、私は軽蔑していた。「チッ、この、低俗ミーハーどもめ」
 ネモフィラ畑だの日本で一番の藤棚だの、「GWは、おフランスに行ってパリを満喫したでざます」だのと、ドヤ顔で語る紳士淑女のなんと多いことか。彼と彼女らは著者が示す紛うことなき『庶民』だったに違いない。
 
 この手の本は矛盾に満ちている。
 本書に従うこそが『庶民』なのではと私は思う。だって、他人のノウハウの真似事をしても、その他大勢から抜け出せないんでしょう? 『庶民』のままなんでしょう? 従っちゃダメなんでしょ? じゃあ、貴方は? マイクロソフトの社長にもなり、本書を含めた書籍で印税を得ている貴方は成功者である。もしかしたら「莫大な所得税や住民税を払っているから然程成功していないし儲けてもいない」と言うかもしれない。けれど、真の非成功者から言わせれば、十分成功者だ。
 そんな人の「私はこんな本を読んできた!」を参考に行動したら。読者の立場は如何なるのだろう。

 いや、そもそも、本を読みたくても読めない人達。経営者に採取されている非正規労働者(※非ソシャゲユーザー)にしてみれば、『ながら読み』も『合間読み』も贅沢な時間なのかもしれないと思う。正社員だった私でさえ、昼休みに食事を取り『ながら読み』は出来なかった。何故なら、同僚や先輩との人間関係の構築や取り持ちがあったからだ。派閥に属さなくとも、双方の主張を聴いて同調する所は同調し、仲介に立つ必要があれば立たねばならなかった。
「対立なんて関係ない。私は私の道を行く。AとBが対立して戦争をするなら、死ぬまでやれば良い!」なんてことは考えられなかった。
 加えて、大抵の労働者には、大まかな労働スケジュールがあると思う。私にはあった。一介の事務員にしかなれなかったが故に、労働者不足による突発の欠員問題は日常茶飯事な環境だった。○時には○○して△時には△△して、同時に□□と■■を処理して、緊急で◇◇が発生する可能性もあるから随時監視態勢を保持しつつデータ更新をする。ここまでが平穏な通常業務だ。季節や時期によって、四つほど業務が増える。私の場合、新人だったにも関わらず委員会の重役補佐みたいな役職にも付けられたおかげで、通常業務の手順もそこそこに出張に駆り出された。若輩の私が年配者を研修する羽目にもなった。あの心身共に辟易とした時間を考えると、数分でも満足に読書時間が確保できることは奇跡に近い気がする。それほど、非成功者の体感時間は酷く短い。一体、いつ積読本を消化すれば良いのやら。(だからこそ、ソシャゲに割く時間などないとも思う)
 閑話休題。
 最近読んだ自己啓発本では、「情報は鵜呑みにするな」と言っていた。人の意見に惑わされず自分の意見と意思を優先し、自分を大切にしろと言っていた。
 なのに、本書には「私──著者──を尊敬して真似しても良いんやで」と言わんばかりに書評家や書物、更には自分が携わる書評サイトを紹介している。結局どうしたいんだよ。己のレベル以下の人間──つまり、読者──を見下して笑いたいのか否か。私には著書の心が分からない。
 
 著者は、読者を『庶民』の枠に監禁したいのだろうか。否、『したい』は間違いか。多くの読者が『庶民』枠に留まって欲しいのだ。私はそう感じた。
 インスタ映えだの流行り物に執着する『庶民』が増えれば、そして読書に迷う人が増えれば増えるほど、著者の懐が肥える。本書では、使える金を本に注げと説いていた。つまり、SSRキャラではなく著者に課金しろということだ。
 
 ところで、梅棹忠夫の「知的生産の技術」では、本は最後まで読み、心覚えに傍線を引いたり読書ノートを書けと説いている。
 読書の方法について、この手の食い違いがよく起こる。舐めるように読むのか、アンテナに反応した部分だけ読むのか。傍線を引くのか否か。読書ノートは無駄なのか。
 一体どっちなんだよ。
 これは時代の変化による意見の違いか? 『庶民』な読者である私には、正確で正常な判断が付けられなくてとても困る。取り敢えず、十冊を並行読書するのはやり過ぎだろう。私は三冊でいいと思う。女優の有村架純さんも、三冊同時に読んでいるらしいから。その程度が丁度良いに違いない。

(了)


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