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5冊目『知的生産の技術』/梅棹忠夫

 二週間ほど前、『本は10冊同時に読め!』の感想文を書いた。

 その記事の最後あたりで『知的生産の技術』を取り上げたので、今回はその本について。

 本書を知ったキッカケを私は覚えていない。誰かに紹介されたのか、当時注目していた誰かが読んでいて「私も読む!」となったのか、はたまたAmazonの「この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています」のコーナーで発見したのか。まるで記憶にない。『ほしい物リスト』からの頂き物なので、もしかしたら一番最後が有力なのかもしれない。

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 この手の本を読むと賢くなれる気がする。
 文庫本よりも細長くて、タイトルも堅苦しい。如何にも「フッフッフ、私を読むのは難しいですよ」という雰囲気を纏っているから、持っているだけで教養が高まりそうだ。発行年が古ければ古いほど良い。だって、古いと文章まで堅っ苦しくて、めちゃくちゃ読みづらそうじゃん。そんな本を読んで理解出来るようになれたら。きっと賢くなるに違いない!
 しかし、現実は違う。少なくとも、持っているだけでは意味がない。
 それどころか文章のレベルと、自分のおつむレベルの差が激しすぎて読解不可能。最終的に『活字アレルギー』なる謎の疾患を発症して、読書嫌いになる──のではないかと思う。

 幸いにも、本書は1969年に発行されたにも関わらず驚くほどスラスラ読める。字が大きい仕様に改版されているので、尚のこと読みやすい。
 タイトルに『技術』と入っているので、専門書か指南書のようにも見える。けれど、実際には『知的活動についてのエッセイ』である。著者自身も「知的生産の技術を体系的に解説しようとはしていない」し「ハウ・ツー本でもない」と明記している。なので、指南書としての役割を期待している人にはオススメしない。勉強にはなると思うけれど、読了後の満足感は薄いでしょうから。

 手帳やメモの取り方、(京大型)カードの使い方、書類の整理に手紙、日記、原稿の書き方など。知的生産に関する実践的技術について筆者なりの提案が記されている。どれもこれも興味深いしアレもコレもと感想を綴りたいところだが、ここでは敢えて読書法について注目したいと思う。

 成毛眞の『本は10冊同時に読め!』では、必要な情報を得られれば最後まで読む必要ない。読み捨てて良いと説いていた。最近読み終わった外山滋比古の『乱読のセレンディピティ』では、本は風のように素早く読めと言う。一日の、若しくは読書に充てられる時間は限られているのに、本は溢れる程あるのだから、じっくり時間をかけるのはナンセンスなのだとか。
 それに対し、本書では、本は始めから終わりまで読むものだと主張する。読者は、筆者が何を言おうとしているのか理解せねばならない。ならば、最後まで全部読まねばならぬ。半分だけとか、拾い読みなんてのは下手な読み方。斜め読みで十分理解したというのは信用しない方が良いとまで言い切っている。
 更に、成毛氏は「読んでいる最中にメモは書くな」と言う。其々に感想を纏めても意味がないし、傍線を引くのだって良くない。精々、付箋を貼る程度にしろと暗に述べている。
 梅棹氏は逆だ。読了したなら確認作業として記録を残しなさい。内容は何でも良いからノートを付けなさい。傍線だって重要だ。ページの欄外にメモや感想を書き残すのも良い。本の裏扉には入手した年月日と入手方法、読了日もサインするのだと言うではないか。
 いやはや。ここまで主張が真逆だと、いっそ笑えてくる。年代差から対立した主張が生まれるのかと考えてみた。けれど、他の読書法を読む限り年齢は無関係らしい。高確率でどちらかに分かれる。
 なので、誠に勝手ながら私は、速読で読書記録やノートをとらない読み方を「成毛式」、精読で記録やノートを残す読み方を「梅棹式」と呼んで分類している。外山氏は成毛式である。
 因みに私は、読み飛ばしはしないけれど出来るだけ速読し、付箋を貼り、読了後の数日から数週間後に読書ノートを書くようにしている。両氏の“いいとこ取り”をしているつもりである。

 方向性が異なる読書法ではあるが、共通する部分もある。
 やはり、一冊の本に夢中になるのではなく、いくつか平行して読むのが良い。それも、関連が薄い分野の本を選ぶべし。そして、得た情報を活かして自分の思想を開発する必要がある。ただただ読書の楽しみを享受し、情報や雑学を活かさないのは知的生産ではない。知的消費である。
 これらの点だけは同意見らしい。仲が良いんだか悪いんだか。

 先にも記述した通り、本書は読書法以外にも興味深い内容がいっぱい詰まっている。流石にタイプライターのように、嫌でも時代を感じざるを得ない部分もある。
 けれど、タイプライターはパソコンに変わっただけだ。手紙やメモ書きだって、紙からメール、Evernote、メモアプリに変換されたに過ぎない。
 著者の提案はガジェットが進化しただけで、現代社会でも十分に通用する。これが半世紀前に書かれたと思うと普通に尊敬する。それと同時に、これから先の知的生産に不安を感じる部分もある。
 私達の生活は非常に豊かで実に便利なものとなった。メモを取る行為でさえ「如何に便利で使いやすく、後も効率よく扱えるよう残すか」なんて考えもしない。それらは既に見知らぬ誰かがやってくれている。
 不自由な時代だったからこそ、己で考え工夫し、知的な生産をし続けられた。私達の環境では、知的生産活動には少しばかり窮屈のように思う。享受ばかりではダメだ。もっと遥か先を見据えなければ。

(了)


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