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なぜ日本人はお寺と神社の違いがわからないのか?

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「お寺と神社の違いがわからない」という人って、日本人でもけっこういるんじゃないでしょうか?

 そのちがいをズバリ言うと、神道の神々を祭る神社と、仏教の仏様を祭るお寺は、根本的に宗教がちがいます。

 神道は古代からつづく日本独自の宗教です。

 そして仏教はインドお釈迦様が開いた宗教です。

 なので、飲食店で例えると、神社とお寺はカレー屋さんとお寿司屋さんくらい違います。

日本の信仰は独特で、大晦日にはお寺が鳴らす除夜の鐘を聞いて、お正月には神社に初詣に行くという、年末年始には異なる宗教の連続で行っています。

 このように、日本では違う宗教が存在していて、神主さんとお坊さんが宗教争いを起こす、なんてことはありません。

 実は争いが起きないのにも訳があります。

 神道はアマテラス、スサノオ、オオクニヌシなどたくさんの神様がいます。
 同じように仏教も、釈迦如来、千手観音、薬師如来など、たくさんの仏様がいます。

 このように、たくさんの神様がいる宗教を多神教(たしんきょう)といいます。

 なので、ゼウス、ポセイドン、ハデスなど様々な神様がいるギリシャ神話は多神教の分類にはいります。

 たくさんの神様がいる多神教は、他の宗教と相性がいいという性質があります。

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 こんな感じで、多神教は色々な神様を認めているので、他の宗教の神様でも受け入れたりします。

 多神教同士の神道と仏教はもともと相性がよかったのは、わかってもらえたかと思います。

 それでは、仏教がどのように入ってきて、なぜお寺と神社のちがいがわからない日本人が多いのか、お話していきましょう

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仏教伝来

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仏教が日本に伝わってきたのは、西暦538年だといわれています(諸説あり)。

 なので時代的には飛鳥時代ですね。

 当時の日本では、仏教を取り入れようとする蘇我氏(そがし)と、仏教を反対している物部氏(もののべし)に別れて争っていました。


 なぜ蘇我氏は仏教を取り入れようとしていたのかというと、もともと仏教はインドでお釈迦様が悟りを開いてできた宗教でした。

 ですが、大陸を渡って日本にやってくるまでに、様々なルールが生まれていました。
 
 飛鳥時代の日本には、まだ法律がなかったので、蘇我氏は仏教のルールを取り入れて法律を作ろうとしていたのです。

 それに反対したのが物部氏だったのです。

それに反対したのが物部氏だったので

「教なんてよその国の宗教を取り入れたら、八百万の神々が怒るでしょ!」という物部氏と……

「大陸では仏教が広がっている。新しい考え方を取り入れないと、時代遅れになってしまう」蘇我氏はこのように主張していました。

 さて、蘇我氏と物部氏の争いですが、いつの時代も常に外に目を向けて、新しいものを取り入れようとする側が勝ちます。

 古い考えに固着した物部氏は衰退していきます。

 反対に新しい考え方を取り入れた蘇我氏は繁栄します。仏教が広がっていく日本


仏教が広がっていく日本

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蘇我氏によって仏教が日本にやってきたわけですが、710年に奈良時代がはじまると仏教が全国的に広がっていきます。
 
 その背景には、天然痘という病気の蔓延があります。

 医学が未発達なので原因がわからないし、対処法もありません。

 なので、当時の天皇である聖武天皇は「仏様の力でなんとかしよう」

 このように考え、日本に仏教を広めるために、各地に国分寺や国文尼寺を建てました。

 さらに、東大寺を建てて、あの有名な奈良の大仏を造ったのです。

 こうして、聖武天皇によって仏教が全国に広がっていったのですが、一方で神仏習合(しんぶつしゅうごう)という、まったく新しい考え方も生まれていました。

神仏習合ってなに?

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 神仏習合というのは「神と仏は同じである」という考え方です。 

 ようするに、日本に仏教が広がっていくと、神道と仏教が合体したのです。

 この神仏習合という考え方を元に、お寺に神社がついた神宮寺(じんぐうじ)という寺院ができました。

 また、お寺の中に神社を建てる鎮守社(ちんじゅがみ)という社も生まれます

 それだけでなく昔の日本では、お寺なのに鳥居があったり、神社でお経を読んだりしていたそうです。

 神道なのか仏教なのか、ゴチャゴチャしてよくわからい状態が千年ちかく続いていきます。

 また、神仏習合から神道の山岳信仰と仏教を合体させてできたのが、修験道(しゅけんどう)という宗教です。

 神道には厳しい修行を強いることはありません。

 しかし、山岳信仰と仏教を合体させた修験道は山にこもり、修行して霊力を高め、人々を救うことを目的としています。

 修験道をしている人を、山に伏して修行するので山伏と呼ばれるようになにました。

 そして、山伏たちは全国で布教活動をしたので、修験道の施設である権現社(ごんげんしゃ)を各地につくっていきました。

 また、鎌倉幕府をつくったサムライの源頼朝が、神宮寺で祭られていた八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を信仰していたことから、神宮寺はサムライたちに人気となりました。

 なので、神宮寺はサムライの守護神とされて、サムライの時代である鎌倉から江戸時代では、神宮寺が数を増やしていきま


なぜ神社とお寺が残った

「神仏習合はわかったけど、神宮寺や権現社なんて見たことないし、鳥居があるお寺なんて知らないよ」

 このように思った人が多いのではないでしょうか

 その理由をお話していきます。

 飛鳥時代に仏教が伝来して以降、神道と仏教が混ざった神仏習合という考えが広がっていき、神宮寺や権現社というお寺と神社がハイブリッドした建物が全国に広がっていきました。

 神仏習合の時代に終わりがきたのは、明治時代が終わってからです。

 幕末志士たちによって江戸幕府が終わり、明治政府ができると、当時の政府は神道によって国民の思想を統一しようと考えました。

 そこで、神仏分離令という政策を出し、合体していた神道と仏教を明確に分けたのです。

 そのため、神社でお経を読むのは禁止になり、お寺の鳥居は取り壊すのを命令されました。

 この神仏分離令は「神と仏を分ける」ために出した法令で、神道以外の宗教を排斥するものじゃありませんでした。

 一方で政府は神道を優遇しており、権現社や神宮寺など、神社とお寺が混ざった曖昧なものを認めなかったのです。

「これからの時代は権現社や神宮寺という、あいまいなものは認めない!社を残したからったら、日本古来の神様を祭りなさい!」

 このように明治政府が言ったので、ほとんどの権現社や神宮寺は日本の神様を祭る神社になったそうです。

 こうして、明治時代に神社が爆発的に増えました。

 今では全国に8万社もの神社があるそなのですが、その由来を見ると、元々権現社や神宮寺だった場所は少なくありません。

 また、神仏分離令によって分けられた神社とお寺ですが、愛知県豊川市にある妙巌寺(通称豊川稲荷)では、お寺なのに鳥居が残っています。

 神仏習合以前の姿を残している珍しいお寺でもあります。

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《愛知県豊川市 妙厳寺の画像》


今回のまとめ

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 最後まで読んでくれてありがとうございます。

 今回はこんな感じですが、、皆様の「神社参拝」や「御朱印集め」がより楽しくなる記事をめざしています。

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