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コンビニよりも多い神社の謎⑤ 頑張れば誰でも神様になれる!? 日本という国

東照大権現の登場

 日光東照宮の主祭神である東照大権現(とうしょうだいごんげん) は、カプコンのゲーム『戦国BASARA』でも名前が出てきたので、馴染みのある人もいるのではないでしょうか。さて東照大権現ですが他の権現とは違い、仏と神が合体して誕生したものではありません。
 何故なら東照大権現の正体は、天下統一を果たし江戸幕府を開いた徳川家康だからです。

 徳川家康は死後、日本と江戸幕府の守護神として日光東照宮にて祭られるようになりました。

 何故、東照宮を建てたのは江戸じゃなく日光だったのでしょうか? 
 それは日光は江戸の北側にあり、この方角は不動の星である北極星と繋がっています。
 つまり日本と江戸幕府の永遠と変わらない平和を守護するために、日光の地を選んだのですね。
 
 神様として祭られているのは、江戸幕府を開いた徳川家康だけではありません。

 豊臣秀吉も死後、豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号をもらい、京都の豊国神社にて祭られています。
 また織田信長も建勲神(たけいさおしん)の神号を授けられ、建勲神社にて祭られています。

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 有名な戦国武将である織田信長を祭った、京都の建勲神社。徳川家康と豊臣秀吉は死後、すぐに神号を授かり神様として祭られました。しかし信長の場合、神号を授かったのはかなり遅く、明治時代になってからです。
 明治天皇が「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一を目指し、日本を一つにまとめた信長のおかげ」と信長の功績を讃え、神号を授け建勲神社の創建しました。

 
日本は人間でも神様になれる場所!?

 神様として祭られているのは家康、信長、秀吉といった戦国武将だけではありません。

 手塚治虫氏は『漫画の神様』、松下幸之助氏は『経営の神様』と言われます。ちなみに植村花菜さんは『トイレの神様』と呼ばれています←これはちょっと違いますね😃

 さて日本人は、大きな功績を残したした人物を「○○神様」と例えますが、この表現には神道の宗教観が関わっています。
 日本独自の宗教である神道は元々、精霊崇拝(アニミズム信仰)であり、『あらゆるものに魂が宿る』という思想からスタートしました。
 この『あらゆるもの』には人間も含まれ、偉業を成し遂げた人間を神様として祭る事があり、実在した人物を祭る神社はたくさんあります。

・陰陽師の安倍晴明を祭る晴明神社。
・明治天皇を祭る明治神宮。
・桓武天皇と孝明天皇を祭る平安神宮。

 また日本が軍国主義だった頃、活躍した軍人である東郷平八郎(とうごうへいはちろう)を祭る東郷神社や、同じく軍人の乃木希典(のぎまれすけ)を祭った乃木神社もあります。

 このように日本は偉業を成し遂げた人物は、生前の功績を讃えられ神様として祭られる事もあります。もしかしたらこれを読んでいる方の中にも、功績が認められ神様として祭られる人がいるかもしれませんね😃

なぜ日本三大怨霊は神様として祭られているのか?

 非業の死を遂げ、現世に強い恨みを残し怨霊になった人物も、神様として祭られる場合もあります。特に有名なのは日本三大怨霊と呼ばれる『菅原道真、平将門、祟徳天皇』です。

 この三人がなぜ怨霊と化し、神様として祭られるようになった経緯を、お話していきます。

 ・平将門
 平安時代に実在した武士で、当時の朝廷に反感を抱いていました。そして自らを『新皇』と名乗り、関東に独立国家を作ろうと計画しますが、朝廷の怒りに触れ討伐されてしまいました。

 将門は首を斬られ、京都で晒し首になります。しかし夜になると「俺の体を持ってこい! 頭を繋げてもう一戦しよう」と喋ったそうです。そしてある夜、将門の首は宙へと舞い上がり、関東の方へ飛んでいったという恐ろしい伝説があります。

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  画像は東京都千代田区のオフィス街にある平将門の首塚という場所です。飛び立った将門の首が降りた所と言われ、取り壊そうとすると祟りが起きるとされます。この首塚以外にも東京都内にある神田明神(かんだみょうじん)筑土神社(つくどじんじゃ)にて平将門の怒りを鎮めるために祭られています。

菅原道真
 平安時代に実在した政治家。家柄はよくなかったのですが、勉学にはげみ実力で出世した勤勉な人物でした。しかし道真の出世を快く思わなかった、藤原時平(ふじわらのときひら)という人物の策略によって失脚し、九州の太宰府へと左遷になってしまいます。道真は帰京を望むも願いは叶わず、失意の内に亡くなってしまいました。

 道真の死後、都では災害が起きたり、疫病が蔓延したりして多くの人が亡くなります。中でも人々に大きな衝撃を与えたのは、清涼殿落雷事件という出来事です。

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 当時、清涼殿という建物では朝廷関係者が集まり会議をしていたのですが、そこへ雷が落ち、多くの人が亡くなったという事件です。
 この落雷によって多くの人は道真の祟りを恐れ、怒りを鎮めるために、道真終焉の地である太宰府に太宰府天満宮を創建しました。

 道真は恐ろしい怨霊になってしまいましたが、元は勤勉な努力家だったので『学業成就』のご利益があるとされました。現代では受験生をはじめ、多くの人に親しまれています。

祟徳天皇
 平安時代に在位していた天皇です。保元の乱という、後白河天皇との皇位争いに巻き込まれてしまいました。争いは祟徳天皇が負け、命をとられる事はありませんでしたが、讃岐(現在の香川県)へと、島流しの刑に処されました。

 讃岐に流された後、祟徳天皇は争いを起こし、多くの人の命を奪ってしまった事を悔やみます。そして亡くなった人の供養のためお経を書き写す写経(しゃきょう)を行いました。
 写経を終えた祟徳天皇は、「供養のために都においてほしい」という事で、写経を都に送りました。

 しかし後白河天皇は……
「呪いがかかってそうだから、送り返して!」と言って、写経を突っぱねてしまったのです。

 送り返された写経を見た祟徳天皇は激怒し、怒りのあまり自らの舌を噛み千切ります。そして流れ出る血で写経に……
『私は日本の大魔王になって、天皇の地位を落としてやる! この写経は呪いの書だ!』と書きました。

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 その後、祟徳天皇は髪や爪を切らず恐ろしい姿となり、生きながら妖怪となったと言われています。
 そして祟徳天皇の死後、あの有名な源平合戦が起き、力をつけた武士によって天皇家の権威は奪われて、武家政権が始まります。祟徳天皇の言葉通りなったのですね。

 時は流れて明治時代、祟徳天皇の怒りを鎮める為、明治天皇は京都に白峯神宮を創建し祟徳天皇を祭りました。そのおかげか、明治維新は成功し、天皇家は約1000年以上もの間、武士によって奪われていた政権を取り返す事ができたと言われています。

霊の怒りを鎮める御霊信仰とは!?

 祟りが本当にあるのか!? という懐疑的な意見もあるかもしれませんが、取り合えず横に置いておいてください😆

 昔の人は怨霊の存在を本気で信じていました。災害や疫病の蔓延など悪い事が起きると、非業の死を遂げた菅原道真、平将門、祟徳天皇の怨霊の仕業としたのです。
 そして怨霊の怒りを鎮め、祟りを抑えようとしたのですね。
(個人的には祟りを恐れてるなら、恨みを買うような事しなければいいのに、と思ってしまいます)

 このように怒る霊を神様として祭り、祟りを鎮める信仰を、御霊信仰(ごりょうしんこう)と言います。

 この御霊信仰が夏の季語にもなっている、京都の祇園祭りの始まりとされています。

 祇園祭りの中心となるのは八坂神社で、荒々しい神様で有名な須佐之男神(すさのおのかみ)が祭られていますが、以前は牛頭天王(ごずてんのう)という、神仏習合によって誕生した神様を祭っていました。

 牛頭天皇も須佐之男神と同じく、気性が荒い神様で、怒ると疫病を流行らせるという迷惑な性質を持っています。

「牛頭天王が怒って、疫病を流行らせるなら、お祭りをしてご機嫌をとろう!」と考えた平安時代の人々が始めたのが、祇園祭りの始まりだと言われています。
 つまり祇園祭りは、神様の機嫌をとる接待みたいなものなのですね。

 日本では古来から存在する神様だけでなく、外国の神様を受け入れ、更に神仏習合によって神宮寺や権現社が登場していくのですが、明治時代になると爆発的に神社が増える出来事が起きました。
 それは何だったのかというと……長くなるので、次回お話します!

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