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随想起抜 「旅はけして終わらない」

作品のようなものを仕上げていると、夢か現かわからぬ処______さながら阿鼻地での目覚めをオモワせる起き抜けに遭遇することがある。考えあぐね始末をみた先のこととして堕ちて来るのか。入院の共に選んだ「林芙美子紀行集 下駄で歩いた巴里」は正解だったのだろう。これ以上ないほどにその存在をわたしの心と頭に刻み付け、再現性という言葉と共に具体的なあり様を伴い堕ちてきた。

林芙美子 紀行集 下駄で歩いた巴里 岩波文庫

拙著 夢殿 第四形態「秋涙」を書き上げてから今にち、リライトに取り組むことを決意するうえでその契機となったのは再現性であることは理解いただけるのかもしれない。書いてみたところで誰彼の理解を得なければならぬという話しでもなく、トドノツマリは書き手自身が納得できるか否かに過ぎず、概ね考え過ぎ、猿のせん〇り程度のことに過ぎないのが通り相場だ。

再現性……ここで書く意味としては時代考証上の風俗であり意思疎通、情交などを背景とした交わす生きた言葉であり、一人称、地文をドマコンとして置く際に配される言葉の整合性や合理性を指すのだが_________、ようやくその形が具体的に見えはじめたということなのかもしれぬ。

一つ確信を持つことが出来のは「秋涙」はもっともっと美しくなれるということであり、その為には足りていない再現性を担保するカノンを私自身が身につけなければならいと云うことである。例えば様式美の一つでもあるシンメトリーであり、ダ・ヴィンチによる人体比例理論にみる基準値でありといったものを言葉の作業の中に投影できなくばならない。

借り物の言葉は読んでいても心地が悪い。その借り物の言葉を自分のものに出来なくてはわたしの考える"美"は表現できないだろう。林芙美子の作品を数本読み、この「下駄で歩いた巴里」を読んだわたしが感じたものは、朴訥とした力強い美しさを内包した作品たちでありということだった。
 林芙美子を書くつもりは無い。ただ同時代を生きた人間たちを書こうとしているだけなのだが、とどのつまりは再現性に馴染みを感じられるひとつの様式美、カノンを構築する力量であり裏付け創りにかかってきそうだ。

二、三カ月書けぬ読めぬがあったがどうやら少しずつ戻ってきたのか。言葉も思い出し始めている。林芙美子への旅を今のうちに深めておきたい。ここまで来たら間に合うか否かは問題ではない。自分が考える着地がすべてと知ることだ。そしてその作業は蟻塚に棒を差し込みそれを舐めとる猿のように果てることなく続くのである。

世一

※ちょっと思うことがあるので、明日25日に短編を一本アップします。
是非楽しみにしていただければと存じます。

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