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妊娠と出産について。男が知らない女の気持ち。もちろんこれは、私の場合。

子供を産むことは幸せかと尋ねられたら、

そういう側面もある、と答える。

出産には幸せでない側面がとても多いと、私は、思う。

実際、私にとっては、喜びよりも、恐怖と不安の方がずっと大きかった。

それに、誤解を恐れながら言うと、

出産は、私の自由を奪った。私の夢も奪った。

そんなひねくれたことを思ってしまう。






つわりが、ひどかった。入院とまでは行かなかったが、激しくなったり軽くなったしながら、それでも四六時中、船酔いしてるような、そんなつわりだった。

スーパーのお惣菜コーナーは地獄だった。食材と調味料と油と人の匂いが絡まり合って見えない波になって襲ってくる。溺れるように、何とか買い物を済ませ、夫が帰る前に食事を作ろうとキッチンに立とうとするも、気分は船酔いのまま。横になっているうちに夫が帰ってきて「ごめん、何にも作ってない」と言うと、自分のダメな嫁っぷりに嫌気がさして、吐き気が増した。

ある日の場合、なんとか作り終えたブリ大根の臭い匂いが、船酔いを助長。吐くものもないのに、長い間トイレにずっとしがみついていた。あれから5年。今でも、ブリ大根は苦手なまま。

見かねて夫が食事を作ってくれたこともあった。要らないと言えず、一口食べて、トイレへ駆け込んだ。


わかってるんです。スーパーに買い出しになんて行かなきゃいいんですよ。夫の夕飯なんて外に食べに行って貰えばいい。作ってもらったものだとしても、食べられないと伝えればいい。今ならそう思える。


でも、結婚して間もない私は、いい嫁、いい妻でありたいと頑張りすぎていた。お腹にいる赤ちゃんのために食べなきゃならないと無理ばかりした。強烈な船酔いの中、解決策を考えるほどの余裕は、ゼロだった。





つわりが少し軽くなった頃、外観でわかるくらいにお腹がふくらんだ。軽くなったとはいえ、つわりに苦しみ続けた私は、単純に幸せを享受することができなくなっていた。膨らんだお腹を見て、私の意志ではどうにもならないものが巣食ってる感覚に陥ることがあった。反面、すごく愛しく思えることもあった。

お腹はさらに大きくなり、中で何かが動くようになった。もちろん、何かが赤ん坊だと言うのはわかっているのだけれど、あったことも、見たこともない、どんなものかもわからない、ただそれがお腹の中にいて、私の意思と関係なく動くのである。私の場合、初産だったこともあるだろう、それを恐怖と感じてしまうことがあり、恐怖と思う自分の不謹慎さを嫌悪したりもした。それを隠すためにお腹をさすり、幸せそうに装ったりもした。つわりの軽い調子の良い日には心から幸せを感じることもあった。

ところが、日々大きくなるお腹は、私の行動も制限した。しゃがめない。落としたものが拾えない。靴下が履けない。足が洗えない。踵はひび割れた。とにかくお腹が重い。腰が痛い。お腹が邪魔で寝返りが打てない。お腹の中の別意思は、私がやっとウトウトし始めるとお腹の中で暴れて、私の眠気を蹴飛ばした。朝までぐっすり眠れることがなくなった。隣で夫がぐっすり眠っているのを見て、なんで私だけ、と夫が憎たらしくもなった。

つわりは、以前ほどひどくはないものの依然続いていた。何も食べたくないと思っていると、突然「マクドナルドのポテトがどうしても食べたい」衝動に襲われ、車に飛び乗った。お腹が邪魔してハンドルが回しづらい。お腹を抱えて注文して、出てきたポテトをむさぼり食べて満足すると、膨らんだ胃が内臓を押し、子宮を圧迫してお腹が張る。張ったお腹の中で別意思がぐるぐる動き、また吐きたくなった。


出産予定日が近づき、あぁ、とにかく早く楽になりたい、早く生まれて欲しい、この苦しみから逃れたいと思うようになると、今度はその苦しみに違う恐怖がのしかかった。“鼻の穴からスイカが出てくる痛み”と揶揄される出産を、心待ちにできるほどの余裕があろうはずもない。“男性なら我慢できずに死ぬだろう”と揶揄される痛み。そんな痛みを楽しみに待てるわけがない。船酔いはもう7ヶ月も続いたまま。不健康で不自由な体と心に、さらに恐怖ばかりが、不安ばかりが、募るわけです。

出産は、幸せなことばかりではないのです。

(こういうことを書くと、欲しくてもできない人が、、、とかいう方もいらっしゃるでしょう。そういう方とはここではなくまた別の場所で対話をしましょう。)



ところが、そんな毎日の吐き気、恐怖、不安を、忘れられる唯一の時間がありました。ラジオの生放送です。ラジオのDJをしている私、生放送の時だけは、吐き気もなく弱気にもならず、絶好調。アドレナリンの仕業でしょうか。ところが、生放送が終わると、また船酔いと恐怖と不安の渦の中へ。

仕事だけが救いだと感じる日々の中、いよいよ、産休に入ることになりました。予定日まで1ヶ月。ただただ、吐き気と恐怖と不安に向き合わねばならない。時間が早く過ぎることだけを願いました。

出産後は続けられないだろう番組を自ら降板したりもしました。辞めると告げたその帰り道には、自分でも驚くほど涙がたくさん流れました。その番組は自分のライフワークでした。インディーズの音楽を紹介する番組でした。ラジオDJとして、それを続けていくことが夢でした。でも、夢を続けるには、出産が、どうしても重荷になってしまったのです。不健康で不自由な体と心では、続けるという強い意思を持ち続けることができませんでした。女じゃなかったら諦めなくてよかったのかな、とも思って、また涙が溢れました。

妊娠は、、、出産は、、、

私にとって、幸せではない側面が、とても多かった。






何より、出産を、子供を重荷に感じてしまう自分がとても罪深かった。








破水から30時間を過ぎても出て来ない息子。会陰切開をし、吸引カップを産道へ入れて引っ張るも出て来ない。この時、母体からの出血を見た夫は覚悟を決めねばならないと感じたと後に話してくれました。すぐにもう一度吸引をしてやっとこの世に出てきた息子。ところが、しばらくしても泣き声が聞こえない。手術着姿の女性が二人がけでまだ体液で汚れている息子の鼻や口に管を入れて、何かを吸い出している。まだ泣き声が聞こえない。隣にいる主人に「なんで泣かないの?」と憔悴仕切った私が声にならない声をかけたところ、やっと、小さくかすれた泣き声が聞こえてきた。カンガルーケア(生まれたばかりの赤ちゃんをお母さんの胸に抱かせスキンシップと取ることで母子の絆を深めること)をお願いをしていたにもかかわらず、息子は、カンガルーケアなしに、チューブに繋がれて、新生児集中治療室へ連れて行かれたのです。分娩時間30時間57分。お腹の息子もその長さにストレスを感じ、自分の便の混ざった羊水を飲んでしまい、肺にそれが詰まり、呼吸がうまくできず、泣くまでに時間がかかったと言う。経過は良いので、そこまでの心配は要らないという前置きがありながら、障害が残ることもある、と言う。私はといえば、輸血までは至らなかったものの、血の足りない状態の中、そんな話を聞かされても、と朦朧とする中で、あんなに続いた船酔いのような気持ち悪さがすっかりなくなっていることに驚きを覚えながら、寝たいという気持ちとは裏腹に、息子が誕生した興奮と、抱き抱えることなく連れて行かれた息子への心配が入り混じって、眠ることができなかったのを何となく覚えている。


病室に帰り、1時間ほど経ったところで、新生児集中治療室へ会いにった。保育器の中で眠っていた。3584グラムで生まれてきた息子は、他の赤ん坊たちの倍ほどもあった。小さく産まれてきた子供たちに囲まれて、息子だけが異様に大きく健康そうに見えた。それなのに、口や鼻にはチューブが差し込まれ、呼吸器が繋がれていた。体には心拍数を測るためのケーブルが貼り付けられていた。何事もなく産んでやれなかったと、申し訳ない気持ちでいっぱいになって、長居できなかった。


その後、病室に戻って、眠った。いつどうやって眠ったのかは覚えていない。


息子の経過はよく、私の退院を一日延長することで、母子同時に退院することができた。黄疸がまだ残る黄色い肌の息子を抱いて、8月の空の下に立つと、暑さを感じるよりも前に、無事に退院できた喜びと、病院という安心から離れねばならぬ不安が込み上げてきた。入院中、母子別室だったため、授乳の機会がなく、母乳が出ない。それでも、家に帰されて、夫が不在の中、ふたりきりで家に取り残される怖さ。何かの間違いで落としてしまったら、突然息をしないなんてことはないだろうか、そんなありもしないことが頭によぎった。


産まれたばかりの赤ん坊は、笑ったりしない。こちらの反応に応えることもせず、ただただそこに在るだけで、コミニュケーションなど、全く取ることができない。それなのに、その命の100%が、私に賭けられているのだ。家にいても気持ちは決して落ち着かず、やっと眠れたと思ったら、お腹が空いたと起こされて、その間にも、うんちをしておしっこをして、オムツを変えろと泣くのである。やっと眠れたと思ったら2時間、3時間で起こされる。そして、少しずつ出るようになった母乳は、私の体力をさらに奪っていく。私からエネルギーを吸い取って、息子は生きているのだ。自分から生気がなくなっていくのがよくわかった。

その頃、外で働く夫は、養う息子が増え、仕事へのモチベーションも上がってやる気マンマン。仕事を終えて、やっと息子に会える!何時間も離れていた息子に早く会いたい!と帰宅すると、、、そこに待っているのが、生気のない私なのです。育児への不安や恐怖と寝不足で幽霊みたいな顔してる私なのですから、、、夫からすると、もうちょっと笑顔で迎えてくれよ、となるわけで。でも、こちらに言わせりゃ、笑顔なんて、無理に決まってるだろう!な話で。喜びの多いはずの出産を経て、なんだか私と夫の関係はギクシャクしていったのです。


出産に対する、夫と妻の価値観の違いを埋めようなんて、それはそれは、至難かつ崇高すぎる理想ですよ。このギャップをいつか埋まるだろうと放っておいたら、、、この結婚、長続きしてなかったんじゃないかな。


私と夫のギャップを埋めたのは、私の仕事復帰でした。産後1ヶ月で仕事に復帰した私。夫の仕事に影響を与えないようにとセーブしながらの復帰でしたが、ベビーシッターや託児所に預けられない時も多々あり、その時は夫が面倒をみました。3時間と経たぬ間に泣きだす首も座らぬ息子と二人きり。私が幽霊になる理由をそのときに、想像することができたのでしょう。夫の育児参加が急激に増えて、私たち夫婦の出産、子育てに対する価値観のギャップが少しずつ埋まっていったように思います。





まぁ、これは、私たち夫婦の話。私の出産の話。今では、笑い飛ばしたいくらい、経験不足で怖がりで弱虫だった私の話。

自分のメンタルを出産があんなに弱めるものだとは想像してなかったから、出産でボロボロになった自分に自分が一番驚いたりもした。とにかくあの時は諸々が正常でなかった。あの時、私をあんなにもひねくれさせたのは、出産だった。実はそのひねくれは今でも残っていて、今でも出産に自由と夢を奪われたと思うことが、時々ある。女じゃなかったら諦めなくてよかったのかなって、今でも時々、思うことがある。





自分が男だったら、どうだったのかな。











さて。この文章は息子の存在を否定するものではありません。生まれてきてくれて本当によかった。健康に育ってくれて本当にありがとう。

ちなみに、息子がお父さんになるときに、聞かせたい話のメモ書きでもあります。

何十年後か先、こんな話を息子にする必要が、なくなってると良いなぁ。子供と持つということを、心から幸せに感じられる人が、性別関係なしに増える、そんな未来が来ているといいのだけれど。


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