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孤独な自分に気づいた日の話

週1であるカウンセリングの日。
最初は「今日は話すことないな」そう思っていた。

きっと終わっても何も得られた感じがしないだろうと思っていた。

だけどその日終わってみれば、今まで見えなかった自分がたくさん見えた。

その日した会話を覚えている限り書き残しておく。

これは私のnoteが点から線として結ばれ始めたおはなし。


カウンセリングと私

私は基本的にカウンセリングの日は、前もって何を話すか考えてから臨んでいる。

その週の過ごし方や体調、その週あった印象的だったこと。
印象的だった自分の考え方などを話している。

だけど最近は自分は前もって話すことを考えても、
「う〜ん、ないな」ってなっていた。

考えることを放棄しているのか、本当にないのかはわからない。

でも言えることとして、初めてカウンセリングをお願いしたときの理由なんて数ヶ月前には忘れてしまったし、きっとそのことではあまり悩んでいないということ。

私にとってカウンセリングはもう壁打ちになっている。

目的もなく他人から自分がどう見えるかを確認するために鏡に映っている自分を見に行っている。


話すことなんてないと思っていた

今回のカウンセリングも同じであった。
「話すことはない」そう思っていた。

だけど終わってみれば、自分がなぜカウンセリングに対して「話すことはないと思っていたのか」という点に加えて、これまで度々noteでも話してきた「他の人との比較」という点においてよく自分が見えた。

何も話すことがなく、静寂が続いていた中でカウンセラーの方は「カレンダーが気になるようですね」といった。

確かに毎回そこに行くと、最初と最後に必ずカレンダーを見ている。
自分にとってカウンセリングは1週間における区切りだから〜とか、1週間の速さを感じるからとか言った覚えがある。

その次は何を話したっけ。
覚えてない。ほら、こういうところ。

相変わらず自分ゴトとして考えていない。

という話をしていたら何を話していたか少し思い出した。


「私」と「この人」

カウンセリングを受け始めて変わったと思うことと変わらなかったと思うこと。

その話を、カウンセリングを受け始めた頃のことは覚えていないと話した後に続けた。

変わらなかったこととして、「自分ゴト」をしないということ。

自分のことであるにも関わらず、他人ゴトのように捉え、第三者の視点から物事を話したり捉えたりすること。これが変わらなかった。

例えば、自分の出来事を話しているにも関わらず
私は「私」のことを「この人」と呼ぶ
他人事のようにかわいそうに見えると客観視する

これって変わらなかったからどうなの?
自分を他人のように捉えたらダメなの?
って思うかもだからそれを補足する。

自分を他人事のように捉えるのことは、自分を大切にしていないのではないかと感じる。そして自分のことなのに冷たくしている自分に悲しみを覚える。

自分ゴトとして捉えられたら、人としてもっと魅力的だったのではないかと思う。自分を大切にしている人を見ると他の人も大切にする人なのではないかと私は思うから。

自分ゴトできていない人は人として、魅力が欠けると思っている。

自分に本気じゃないなんて「この人」は可哀想だなって私は思う。


諦めることはもっと得意になった

カウンセラーの人と話す中でその日は不思議なほどに口が進んだ。
客観わかりにくいところもあっただろうが、自分の言葉として出てきた。

私が変わったなと思う点の話に移る。

私は「諦めること」「割り切る」ことをより受け入れることができるようになったと話した。

これまで「諦めること」を覚えた話については話したことがある。
ここ数ヶ月でそれがより自分に身についていると感じる。

そんな話を続けた。

これまで私は幸か不幸か自分の価値観から大きく逸脱した人と深く関わることがなかったのかもしれない。

その人たちの考えや行動に触れる中で、自分と同じ考え方を持っていないはたくさんいることを理解した。そして自分が思っているように相手が思っていないことも理解した。

私はそこを諦め、割り切った。
私の考え方はこれまでのnoteに真剣に書いているつもり。
(※1番上の【マガジン:赤裸々な文章】)


自分で言うのは嫌だったけど、私はおそらく他の人より周りが見えすぎている。気づかないところまで気づいてしまう。

そしてそこに同じように気づかない人たちを見て、考えて行動しない人を見てしんどい思いをする。

他の人は私とは違うことを受け入れるという成長ができた。
同時にそれは他人に対する「自分尺度の」期待の喪失を意味した。

望まない成長であった。


自分の長所は孤独感の源

こんな話をする中で「でもそういったところに気づくのは長所ではないか?」
とカウンセラーの人に言われた。

私は答えた。

「私はそれは褒め言葉とは思わない。他人と違うことによって、孤独感が増す。」

私はこの質問に対する答えが躊躇いもなく思い浮かんだことに驚いた。
答えた後にこれが自分の本心かと思うとより孤独感が増した。

自分は話を続けた。

その中で、自分が他人に興味を持つことや、他人と比較をすることには単純に「人」に興味があるだけではなく、自分と近い考え方を持っている人を探している側面もあるかもしれない。

自分と近い考え方を持っている人に出会った時には心が躍った。
そして孤独感から一時的な解放をされたことを覚えている。

つまり、私は孤独感から解放されることを望んでいるようだ。

そして補足する形で、自分が「他の人から見た自分はどう見えているのか」を気にするのは、自分が変わることで他の人と類似したあるいは同化した人になりたいと思っていないことも再確認できた。

自分を変えず今のままで、孤独感から解放されることを私は望んでいるようだ。


心躍る相手に必要とされて孤独感は無くなると信じている

これは書いている中で思い出した。
私がたまに言う理不尽の話。

私が心躍った相手は、私にはあまり興味がなかったようだ。
そのことを思い出した。

世の中は難しい。人間関係が難しい。

相手の考え方がわからなければ、
人に対する想いも一方通行になりうる。

「諦めた」「割り切った」とは言っても、その必要がある人たちと会うたびに私の心は悲しんでいる。

今回カウンセリングを通して「自他比較」と「孤独感」が切り離せないものとしてあることに気がついた。

自分のこれからがどうなるだろうか。

人間関係が難しいこの世の中、「孤独感」からの解放を実現させることはとても難しく、恵まれた人にしかできないと今の私は思う。

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