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他者理解を「諦めた」人は何を思って他人に接しますか

「まあ、宗教の違いだしな」

誰かに対して、ふとそう思うことが増えている気がする。

相手が理論で私に話すことを諦め、主観に則った感情や屁理屈を述べ始めたと感じる時に強く思うことだ。

私はこの発言は「諦め」ではないかと最近気づき、疑っている。

私が抱く「諦め」の中でも今回は特に「人に対する考え方」に限定して話を進める。

これまでの私の対人姿勢

これまでの私の人に対する姿勢といえばこの2つに大別される。

①他の人の価値観に対する肯定的姿勢
②他の人に対する高い期待値

まず1つ目だが、私は自分とは異なる価値観を持っている人の意見を排除しないし、積極的に受け入れる姿勢をとってきた。

その背景には、自分と違う背景を持って当たり前、自分が今まで出会ったことのない考え方などを持っている人がいて当たり前と思ってきたからだ。

2つ目に私は他の人に対して、高い期待値を持って接している。高い期待値と聞くと、「上から目線なのか」と思う方もいるかもしれないが、言い換えると誰に対しても対等に接しようとしているということだ。

この2つ目については、1つ目の話とは矛盾することを前提に成り立っていることに最近気がついた。前述したように、価値観や背景などに多様性があると自分で考えている一方で、私は人は根本的に同じところがあると盲信している。

例えば、「他の人は私と同じ人だから、私が他の人に対して興味があるのと同じように程度はどうであれ人に対して興味があるはずだ」と。

こうして客観的に見ると結構暴論なところがある。

この2つ目の盲信してきた内容が最近になってやっと崩れ出した。

その経緯を次では述べる。

「気づき」と変化

「他の人は私と同じ人だから、私が他の人に対して興味があるのと同じように程度はどうであれ人に対して興味があるはずだ」と私はこれまで思ってきた。

しかし、それはどうやら違うようだ。

そう考えるに至った2つの「気づき」は次の通り。

気づき①:私は世の中の他の人が私と同じくらい他人に対して興味を持っていると思って過ごしてきたが、実際そうではなさそう。
(=人は私ほど他人に興味がない)

気づき②:「なんで他の人は私と同じくらい人に興味を持っていないのか」と考えた際、その理由や背景などが見えないほど根本にあって私と考えが相容れない。
(=他の人は自分のような人ではない)

①に関しては最近何度も思うようになった。
1回ではない。2、3回でもない。

②に関しては、相手が理論で私に話すことを諦め主観に則った感情や屁理屈を述べ始めたと感じる時に強く思う。

世の中「宗教の違い」だらけ

人に興味ある宗派
人に興味ない宗派

傲慢なことに、例え相手に他人に対して興味がなかったとしても、私の価値観に触れてもらうことで人に興味を持つことの魅力を考え直す人がいると思っていた。

私が他の人の考えに触れる中で変わってきたのと同じように。

ここでも「宗教の違いだな」と思う。

自分の考えが変わる宗派
自分の考えが変わらない宗派

世の中宗教の違いだらけだ。

そんな言葉で片付けていいのかな。

めちゃくちゃ雑になってきた。

同じと思っていたけど違うみたいだね

この話の流れからすると余談に近いが、少しそもそも論にも触れておく。

私は他の人の言動から「これに関しては他の人も同じなんだ」と思った覚えがある。

つまり前半の方で述べた、人間の数だけ価値観などは違うけれど、程度が異なるだけで共通するような領域もあると思っていたということだ。

その発言として、

「人から自分がどう見られているか気になる」
「他の人と違うのがいやだ」
「他の人から嫌われるのが怖い」

などといった、周囲を気にする発言の数々だ。

周りの全員から聞いたわけでもないこれらの発言から、私は「他の人も、人に対して興味があるんだ」と思うようになったのだろう。

「人からの評価は気にしません」と明言している人は調べたら簡単に出てくるのにね。

でも正直、「気にしません」発言はどこか疑っています。
流石に全く気にしてないわけないでしょ、と。

「宗教の違い」は「諦め」に等しいのでは

世の中「宗教の違い」だらけ。
そんな言葉で片付けていいのかな。

と少し前に述べた。

そんな言葉で片付けないように私はこれまで自分なりに、「相手の立場」とか「客観的視点」というものを大切にしてきた。

そうすることで理解することができるのではないかと信じてきたからだ。

しかし最近では、これまで述べてきた経験などを背景に、自分の努力や姿勢だけではどうにもならないように思えてきた。

相手の姿勢によっては私の姿勢など無に帰すものとなるからだ。

例えば、自分に絶対的な基準を持っている人とか。
(↓それについて書いたやつ↓)

その人を前に私は「宗教の違いだしな」を最後に向き合うことをやめる。

その人に向き合うことを「諦めた」のだ。

最近諦めることが増えた。

「人生」「諦め」とかで検索すると、「諦めないことは大切だ」とか出てくる。

諦めないために私の姿勢を見つめ直すなどの改善点はあったのかもしれない。

だがそれも、もう「諦める」ことに慣れ始めた。

これまで他の人を「自分ときっと似ている」「理解できている」と思ってきたことが前提から崩れ去ったことがきっと大きな背景にあるのだろう。


「〇〇さんは自分のことを他の人と同じ人間と思っていないんじゃない?」

と人に言われたことがある。

今回の「諦め」は、文章の迷走っぷりからもわかるように、より私の他者理解を混沌なものへと進めるものとなった。

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