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否定してくれる人が周りにいない環境

事実かどうかこの目で確かめたわけではないが、こんなことを耳にした。

「多くの声が飛び交う中で自身に否定的な発言を排除し、結果自身に対して肯定的な発言に囲まれた人がいる」と。

私にとってその点が事実か虚偽かはどうでもいい。

そのような環境に身を置いていいことはあるのか。
その人は何を思ってその環境に身をおいているのか。

そこが私にとっての争点であった。

否定的な発言が遮断された環境

まず自分の立場を明確にする。
私は「否定的な発言が遮断された環境」は好ましくない環境と考えている。

言葉を選ばずに述べると、憐れな環境と私は考えている。

「なんで私はそう考えているだろう」
その根拠を探すのに時間をかけてしまった。

その上で見つけた大きな1つの理由を端的に述べよう。

・人として、話していても楽しくなさそう。
私の考えを受け入れろとは言わないが、ある種他の人の価値観を受け入れない「自分に絶対的な基準」を持っている人と話しても面白くなさそう。

イメージしているのは、私が何か自分自身の話をしたとしても、「でも〜」とか「私は〜」から始まる話をする相手の姿である。

この点に関しては、聞き手として専念するのであれば支障はないのかもしれない。

否定的な発言が遮断された環境にいる人
=自分の絶対的基準を振りかざす人

纏めると極端な書き方になりますが、私は人の話を聞いて何も揺れない人が憐れと思っているのでしょう。

否定的な発言が遮断された環境の魅力?

上述したが、結構言葉にできない感覚に則った主観に基づいて述べていると感じてしまったので、一応利点について考えてみる。客観的にね。

真っ先に思いついたのは、自分という軸や基準が外からの影響を受けずブレないという点。

自分が信じていたものや人、考え方が否定された時のダメージは少ないだろう。

簡単に言い換えれば自分の拠り所が明確であり自己防衛に優れているのではないか。

他が思いつかない。

やはり自分の世界を解放した方が面白いのに、と思ってしまう。

一度客観的視点に立ち返ると、私の世界が偏っているのかもしれない。

むしろ、一度「否定的な発言が遮断された環境」に身をおいている人と話した方がいい気がしてきた。

話を最初に戻そう

ここで最初で述べた他の人の事例をより明確にする。
それはある登録者数は数十万人のYouTuberの話あった。

自身に否定的なコメントやチャットを自身やモデレーターを用いて削除しているというのだ。(周りの人も一緒に否定的な発言を削除するって宗教じみた何かとか、裸の王様を想起させる)

なので、普段の生活の中で思い浮かぶような否定的な環境とは異なるかもしれない。

具体的に否定的な発言は1つではなく数百数千とかで、
感覚的には四方八方から罵声を浴びせられているものかもしれない。

なので、私が述べたような否定的な発言を受け入れることによって得られる利益よりも、否定的発言を受け入れる不利益の方が大きいのかもしれない。

例えば、私が想像しうる範疇を超えた苦痛が生じているのであれば立派な不利益だろう。

普段私が過ごしている環境とは大きく乖離しており、そんな前提とも言える「環境」に大きな差があるが、自分を否定する声を遮断すると言うことは果たしていいことだろうか。

今回はとても主観的な話を書いた。

「否定的な発言を遮断することでこんないいことが自分にはあった」とかいう話があればぜひ聞いてみたい。

そうでもないと私は私が1番嫌う価値観の押し付けをする人に気づけば自分がなっていそうだからだ。



【余談】
ここ数日書こう書こうとはしていたけど、何を書こうにも文章が思い浮かばなかった。題材だけなら数十個あるのにどれもこれも内容が書けなかった。この題材も1週間前から考えていたけど、仕上げるのに6日もかかっちゃった。
書けない時はとことん書けないやって思いましたね。


↓他の発言を受け入れすぎた時に感じたこと↓

↓私は人の話を自分のものとして取り込みたい↓

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