独立する自分なんてものはなくて 自分は他の人を接ぎ合わせた人
「〇〇さんってどんな人ですか」
「〇〇さんは何が趣味ですか」
「〇〇さんはなぜそれを選んだのですか」
これらの質問に対して答える際、
必ずといっていいほど「自分の意思や主観以外の要素」
というものが答える材料になっていないだろうか。
「私のこと××さんはこうだと言っていたな」とか
「その趣味にハマったきっかけは△△さんだったな」とか
「□□さんとの思い出や経験からその選択をした」とか
全てにおいて他の人が関与しているとは言わない。
しかし、多くの事柄において私は他の人の影響を受けてきたと感じている。
今の「自分」は他の人ありきで「自分たらしめている」のではないか。
自分は「他の人から構造される人工物の一種」ではないか。
そんな話を今回はしたい。
人との出会いは選択できる分岐点
新しい人との出会いがあると、
自然と新しい価値観やコトとの出会いもあるのではないか。
例えば、相対的に多くの人が経験していそうな過程だと…
・高校に進学し、それまでの地元のコミュニティから脱すること。
・部活動を通して同じ部活の他の学校の生徒と情報交換すること。
が自分の中ではパッと思いついた。
これらの過程は私に限らず各々に何かもたらしたのではないだろうか。
・それまでの当たり前を否定するような事実との出会い
・新奇性ある革新的なコトとの出会い
これらは「自分」に選択肢を与えてくれる。
①それまでの考えや価値観などを守り自分を変えない
②いいと思うことを積極的に取り入れて自分を変える
新しい出会いは自分に変わる選択肢を提供してくれる可能性があるものだ。
そして私は後者の変わることを選んだ。
無意識に捨てられた自分と残った他人
私は出会いと変化を繰り返した。
変化することを通して自分が考える、よりよい自分を目指した。
いいと思う考えなどを自分のものにし、
それまで持っていたものを何度もたくさん捨てた。
そのことを経て、自分を構成しているものの9割以上ほとんどがもともと持っていなかったものではないか。と思うようになった。
私の持ち物は他の人を思い出させるもので溢れていた。
自分の意思だけで存在しているものが思い出せなかった。
私はそれに気づいた時「自分ってどこにあるの?」
と思い、一種の恐怖と気持ち悪さを感じた。
自分を捨てて、他の人が自分を動かしているように感じたことが1つの理由だ。
そもそも「純粋な自分」なんて無理では
書いているうちもそうだが、他の人に影響されず、他の人と結びつかない自分を構成する要素ばかりで自分を構成することは不可能だと思っている。
事実多くの人は嫌でも人とは関わるし、
他の人・先人の知恵を頼った方が自分にとっても合理的である。
私がこの事実をどこか不気味で卑屈な捉え方をしていることが、客観的に見た際の私における1番の問題点かもしれない。
私が他人と自分を比較するうちに、自分だけのものがないとか思ってしまったことがここまで拗れてしまったのだろうか。
結局「他の人と作り上げた今の自分」を「自分」として受け入れる
というとても簡単な解決方法に回帰するしかないのだろうか。
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