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諦めることは悲しいし結局私はわがままなんだろう

賢い私は最近諦めることを覚えた。

具体的に客観的と疑っていなかった、自分基準でしかない人に対する期待を持つことが減ったと感じている。

それによって自分がしんどい思い、虚しい思い、言語化できない理不尽な思いをすることが減ったと思っている。

人に対して強い興味を持っているが故の変化だろう。

興味を持つとしんどいことが多い。
人にアプローチをかける、人と比較する、人に期待する。

それらは全て自分主体であることから全てが相手依存であった。

諦めることは自分を守る行為になっていた。


(参考、補足としての話:読まなくていいよ)
↓私が感じた理不尽なことの1つ

↓諦めることを覚えたと感じている話

一致しない考えと言動

「〇〇さんって前に、『私は普段から人に期待しないようにしている』と言っていませんでしたか」

先週「最近諦めることを覚えたんですよ。だから何か悩みのような考えることも減って…」とスカして私が切り出した先に、半年以上前の話を掘り返された。

「あ」

私はマスク越しに思わず笑ってしまった。

その時って諦めた時期でもなんでもないのにそんな感情抱いていたな。

そんなことを思い出した。

つまりまだ明確に他人に対する興味を持っていた時期のはずなのに、矛盾しているじゃんと思った。

少なくとも、その当時に発言した『私は普段から人に期待しないようにしている』ということが今の「諦め」に関する引き金だとは思っていない。

そのことから、今も当時も変わらないと思った。

当時は「人に期待しないようにしている」と言いつつも、他の人のことが気になって仕方なかった。

今は「諦めることを覚えた」と言いつつも、当時と同じように本心は別なのではないか、そこまで割り切れていないのではないか。

と一致しない私の言動から思わずにはいられない。

何を諦められていないんだろう

私が「どこか諦められていない」感情を抱いているのだとしたら、一体何を諦め切れていないのだろうと思う。

それはきっと自分が他の人に期待していたことと関係しているはずだ。

期待している内容については、そもそも私と他の人の価値観や考え方が根本的に違うことに気づいた。そして、相容れないことがきっと思っている以上にあるのだろうと思った。相容れないことの悲しさを味わいたくないと思ったのかな。

上の一連の流れが合っているか自分でもわからない。

じゃあこっちの方が簡潔に期待していたことかなと思うことがある。

私は他の人の心に土足で上がり込んでそこでお話ししたい。
覚悟があるなら上がり込まれてもいい。

ということだ。それに興味がある人が少ない、できない環境に気づいた面白くなさからの感情だろうか。

子どものようなわがまま

上記で2つの観点を述べたが、両方自分本位だなと思う。

わがままだなと思う。

自分と違うことに「諦め」を見出しているとは思えない時がある。

自分と違うことに「つまらなさ」「苛立ち」といったものを抱いていないか。

本当は「諦めて」いない。
本当は「諦める」ことを悲しく思っているのではないか。

自分が望むような周りではない。
自分がしたいと思うことができない。

このような状況を「諦め」という感情・言葉・体裁に全て責任転嫁しているのではないか。

責任転嫁しているなら尚更子どものような側面が強く感じられる。

諦めたくないとするなら、その姿勢を他の人に押し付けているのもわがままではないのか。

それでも本質はまだ見えない

どう行動したら私の心は満たされるのか。

上の話で何がどうなっているのかわからなくなってきた。

後からこのとっ散らかった文章を読み直してみたらわかるのだろうか。

苦しむことや傷つくことなく、自分にとって都合のいい、そして快適な人間関係を構築したい。と思っているのだろうか。

自分の願いが叶うときに叶う環境に惹かれるところだった。

つい最近それに近い環境を否定したはずだったのにな。

自分本位な世界を望む自分と、他人を見て自分本位の世界を否定する自分の対立構造が少し見えた。

それが垣間見えただけでも今回は大きな収穫だ。


↓私が否定した環境↓

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