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非行少年だった息子が社長になった話#1(喪失感から転落へ)

いまどきの「非行少年」ってどんなイメージでしょう。
『ケーキの切れない非行少年』という本からの印象が強いのでしょうか。

この話は、すべて我が家で実際に起こったことで事実、実話です。
全10話にまとめていく予定です。

こんな話をしたところで誰の胸に刺さるのかはわかりませんが、
「お子さんの非行で悩んでいる親御さん」
「非行に走った中学生を指導している教員」
「鑑別所の職員さん」
「少年課の刑事さん」
長男と私の周りで関わった人たちとの記録になるのかもしれません。

特に今、
「思春期、反抗期の子を持つ親御さん」
は、児相に相談するべきか悩んでいるかもしれません。

誰に?どこに?信頼できる人に相談できないなら、ひとりで問題を抱え込んでしまいます。
軽い気持ちで児相に相談に行くと、ケースによってはその場で子を保護されてしまったなんていう話もあります。

当時の我が家は、長男の非行行動に対して相談できず孤立していました。
少なくとも、彼が逮捕されるまでは。



和太鼓と共に

長男は、3月生まれです。
私たち夫婦にとって初めての子でもあり、男の子育児は大変だと聞いていたのですが、確かに神経質な夜泣きの連続にかなりメンタルをやられていた新米ママのあゆむちゃんでした。

初産ということもあり難産でしたので、身体の回復に時間がかかり病弱なママでもありました。

それでも、日がたつにつれ長男が笑うようになったり寝顔を見ては癒され、案外子育てに向いているかも!と思ったものです。

・和太鼓をやりたい

周りの男の子がサッカーや野球を習い始めるような年ごろの時、長男は「和太鼓」を習い始めました。

夏祭りでの和太鼓演奏がよっぽど気に入ったのでしょう、2歳でおもちゃのバチを買い与えると、毎日毎日座布団を太鼓に見立ててお祭りで見たお兄さんたちの真似をしていました。

和太鼓を習う条件は、それなりに体力と理解力が必要ということでしたので、就学前の幼児は正式な入会はできませんでした。
でも、練習を見学させてもらった時に長男のやる気が認められ(?)「好きなように叩きに来てもいいよ」と代表さんに言ってもらえたので、3歳から「練習に参加」というよりは「遊びに」行くようになっていました。

・小学校5年生で本格的に和太鼓の道へ

小学生になって正式に地元の和太鼓チームに入会すると、もともとのやる気に加えて素質もあったのか短期間で演目を覚える才能もあり、長男のファンができるほど地元では人気ものになっていました。

小学校1~2年生の頃

お祭りで披露する以外にも、舞台や出張演奏などもこなし、和太鼓は一つの芸能でもあるんだと実感していました。

そして、小学校高学年になった時、長男は初めて和太鼓チームの移籍を経験しました。

長男が移籍を希望したのは、子どもだけの和太鼓チームでした。
最初に所属していたところは、主に地域のお父さんがメインで、家族ぐるみで参加しているアットホームなチームでした。

でも、ある時子どもだけの和太鼓チームが大きな舞台で演奏し、大会でも受賞するような完成度の高い舞台を観て、
「俺もここでやりたい」
と言い出しました。

和太鼓チームでは、地域間の「しがらみ」みたいなものがあり、移籍は簡単にはできそうになかったのですが、最終的には長男の希望を受け入れてくださり移籍が叶いました。

アットホームな和太鼓チームから飛び出し、才能あふれた子どもたちだけで活動する実力派の和太鼓チームへの移籍。
ところが、この子どもチームはとんでもないチームだったんです…

バチが飛んでくる(太鼓も飛んでくる)

昔あった、「戸塚ヨットスクール」という非行少年の矯正施設をご存知でしょうか。
私は、最初にこの和太鼓チーム(Hとします)の練習を見たとき、その光景と同じじゃないかと愕然としました。

Hでは、教える先生は一人。
その先生の中学生の息子さんをはじめ、小中学生で活動していました。

・郷に入れば郷に従うのか?

小学生が夜22時までの練習はどうなんだろう?と思いながら週2日(水、土)の練習と、本番があるときは日曜日にも活動していました。

長男が5年生でしたので、長女は年長、次女は3歳でした。
我が家はすでに離婚後でしたので、長男の練習や本番には妹たちも一緒に連れて行かなければなりませんでした。

自分の意志で
「ここでやりたい」
といった長男ですが、さすがに練習方法がスパルタで驚いたようですし、私もこのままで良いのか悶々と悩みながら通わせていた記憶があります。

最初は言葉の暴力、罵声をよく浴びせられていました。
「なんでこんなことができないだよ!」
「簡単だろーが!」
「できるまで休むなよ!」
なかなか思うように音が取れなくて苦しむ長男に対して、先生の言葉がヒートアップしてくるようでした。

そのうちに、バチを投げつけられ、締め太鼓(小さい太鼓)を投げつけられ、スパルタを通り越して暴力での恐怖指導が親の面前でも行われていることに
「ここにいて本当にいいの?!」
と悩みました。
長男も、よくメソメソしていましたが必死にくらいついていたような記憶もあります。

百歩譲って良い方に捉えれば
「熱心な指導」
なのかもしれません。
ですが、悪い方に捉えればやはり
「ただの暴力」
でしょう。

ましてや、今のご時世こんな指導をしていたら訴える親もいそうです。

私も、この先生の指導に愛もクソもないと思っていました。

ところが、同じチームのお母さんたちは、この先生の指導のおかげで子ども達が成長したとか、関東では有名な子どもの和太鼓チームだから鼻が高いなど話していたのです。

恐ろしいことに、少しすると私自身も
「弱い子ではダメ、しっかり指導してもらわないと!」
という思考に切り替わっていました。

ただ、確かに技術力は上がったし主戦力にもなって舞台にも沢山立たせてもらい、和太鼓の新たな魅力に気付けたというのも、残念ながら事実です。

同時に2つの太鼓を叩くことで舞台映えも

・ついに怪我をしてきたのでもうダメだと思った

ある日、練習から帰ってくると(その日は長女の予定があったので送り迎えせず)目の横に青タンができていました。

「あぁいつかくるな…」
と思っていた日が来たという感情でしたので、私は淡々と
「もう辞めよう」
と長男に伝えました。

長男も黙ってうなづいていました。

それにしても辞めるのも大変でした。
予定されていた大きなお祭りでの本番を最後に、という段取りだったんですが、その日は朝から無視され続け、最後の挨拶もさせてもらえない状況で後味の悪い辞め方になってしまいました。

これが本物の和太鼓

大好きな和太鼓をこんな形で終わりにしたくないな…と思った私はできるだけ通わせやすいようになるべく近場で活動している和太鼓チームを探し始めました。

いや、近場だともう長男の顔が割れていましたし、辞めたばかりの和太鼓チームHの先生がどんな卑怯な噂を流すかわかりません。(そういう人間性の人でした)

・三宅太鼓との出会い

丁度その当時、三宅島の噴火から避難して都内に在住されていたのが三宅島の伝統芸能「三宅太鼓」のお師匠一家でした。

本土で三宅太鼓の伝承をしたいということで活動をされていて、私たちの家の近くでも(と言っても自治体は違いましたが)お教室を開いていることがわかりました。

地域とのしがらみもなく、長男のことを誰も知らない環境で新たに和太鼓を始めるのが絶対いいと思っていたので、長男も同意のもと一緒に体験レッスンに行き、その場で入会を決めました。

・ライバル出現!比較されたくない

長男、三宅太鼓の練習風景

関東圏でいくつかの教室を開いていた三宅太鼓は、年に一回各教室が一同に集う発表会を開催していました。

どの教室も、老若男女問わず皆三宅太鼓の魅力に魅せられ日々練習に励んでいる仲間たちでした。

そんな中で、長男と同い年の男の子(J君)に出会いました。
彼のお父さんが、すでに三宅太鼓の先生級の腕前でお弟子さんのような立場の人でしたので、その息子さんもとても上手でした。

当時は小学校6年生にもかかわらず、身体が大きい子だなぁ~と思いました。
比べて長男はというと、ヒョロヒョロという感じで、
「お母さん、ちゃんと肉食べさせてね」
と冗談交じりに言われるくらいでした。

三宅太鼓という大きな組織の中で、長男とJ君は将来有望と言って先生たちからかわいがられていました。

しかし、沢山練習したり合宿に行くにはお金がかかります。
長男の希望全てを叶えてあげることは当時できなかったんですよね。

そんな状況の中で、少しずつJ君との差が開き始めたと実感していた長男は、三宅太鼓の発表会も中学3年生で最後にすると決めていたようで、出番の後すぐに帰ってきてしまいました。

おそらく、J君と比較されることが嫌になっていたんだと思います。

2歳で和太鼓に衝撃をうけ、ちやほやされる時期もあればスパルタでけがをするような時期を経て、三宅太鼓との出会いはまたある意味特別な経験として、長男の心に残っていったと思います。

それは、決して温かい思い出というより苦い思い出だったのではないでしょうか。

人生の支えがなくなった


こう言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、やっぱり長男にとって和太鼓は心の支えであり、それまでの人生の中心にあって特別なものだったような気がします。

中卒で社会に出る選択をした長男に、私は月謝を出さないと宣言しました。
続けたければ自分の給料から出しなさい、と。

今思うと、15歳で社会に出た安月給の子どもに
「自分がやりたいことでしょ、自分でお金を払いなさい」
と突き放した私は鬼母だったと思います。

その後、スッパリと和太鼓を辞めてしまいました。

この時のことを思い出すと、いまだに涙が出てしまいます。
後悔しているのは、私の方ですね。





















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