理不尽だと思う怒りは、自己を確立できなかったから

「怒り」について考えてみました。
これはわたしの中の「怒り」という感情についてです。

ここに何度も書いていることなのですが、わたしは躁状態になると気持ちを「怒り」に変換してしまうことがとても多いんです。
それは焦燥感や不安からくるもので、周りの人たちが遅く感じてしまうのです。不安だから焦る、自分が焦っているから周りが遅く感じる、だからイライラしたり、攻撃的になったりしてしまいます。

自分でもそれは良くないことだと分かっているので、怒っている自分と怒っちゃダメだと思う自分、そして怒ったことへの罪悪感を感じる自分、いろんな自分が同時進行で瞬間的に押し寄せてきて、最後には「自分ってダメな人間だな」という自己否定感だけが残ります。

その怒りは、働いている時に感じることがとても多く、その対象になる相手は仕事が遅い人、仕事に対してやる気がない人、自分勝手に仕事を進めていく人などです。
だからわたしが怒ったことに対して、

「よく言ってくれた!」
「わたしもそれ同じこと思ってたよ」

と、あとになって言われるわけです。
でもわたしはその頃には自己否定感しか残っておらず、それがまた不安の元になり、次に来るのがやっぱり怒りの感情。

「言いたいことあるなら言えばいいじゃん」
「なんでいつもわたしに言わせるの?」

その堂々巡り。そんな自分がとても嫌で、だけどどう抜け出せばいいのかが分からないんです。
時には全身で固く噛みしめながら抑えては、息をするのを忘れてしまうほど思いつめることもありました。

「わたしは人に怒れるような立派な人間じゃないのに」

怒る度にそう思い、疲れて動けなくなっているのを、ごまかしながら生きていました。
だけどそろそろこの「怒り」と向き合うべき時がきたのではないかと、感情のフタを開けてみたのです。

すると、わたしの「怒り」と常に背中合わせだったものがあり、それは「理不尽」と感じていることでした。
『理不尽じゃないかそんなの!』これが怒りの根源です。

わたしは真面目にやっているのに理不尽だ。
わたしはこんなに働いているのに理不尽だ。
わたしはルールをきちんと守っているのに理不尽だ。
わたしは人のためにやっているのに理不尽だ。

いろんなことを理不尽に感じている。この世の中も他人も世間も全て。
そしてその理不尽には必ず「わたしは」という思いがくっつきます。

「わたしは人に怒れるような立派な人間じゃない」と思いながら、
「わたしが認められないのは理不尽だ」という真逆の感情。しっかり挟まれていたのです。

じゃあなぜいろんなことを「理不尽」に感じてしまうのか。

それは自己否定感が強いからです。
人から認められている、自分はちゃんとできている人間だ、その自信が欲しくてたまらないのです。

そしてもっと深掘りしていくと、それは『自分が空っぽだから』という結論に至ります。
結局、行き着くのはそこなんです。自分が空っぽということ。
自己を確立できていない。そういうことなのです。

おそらく、自己を確立していく期間を、わたしはいつの間にかすっ飛ばしたんだと思います。
家庭環境だったり、あと13歳の頃にとある出来事があり、自分を確立することに大きくつまづいてしまったんです。今思い返してみれば。

だけどもちろん、その当時は気づかないし、周りの子たちがどんどん自分というものを作り上げている最中に、わたしはそのスタートラインにも立てていなかった。
だからズレを感じたし、他人に合わせることで無理やり自分を立たせていった結果が、今なんだと思います。

やりたいことが見つからなかったのも、好きなことが見つからなかったのも、将来を描くことができなかったのも、点と点がつながって一本の線になりました。

わたしはこれから自己を確立していくことになります。
ものすごく遅いスタートだけど、結果的にひどい怒りや理不尽に感じてしまう気持ちを失くすことにつながり、それが自分の幸せになるのなら、ゴールを目指してみる選択肢もあると思います。

今はそのためにゆっくり休む期間。そして人と接することへの恐怖を小さくしていく期間。
また働き始めた時に、躁状態に切り替わらないように整える期間。

社会から外れて「わたしは一体なにをしているんだろう・・・」と思っている今が、きっととても大切だと思う反面、それもあとになってみないと分からないという不安。

あれ?生きていくのってこんなに難しかったっけ・・・。
毎日のように思っていたけど、みんなはとっくにその事を知っているのでしょうか。

わたしはすっかり出遅れてしまいました。
過去を変えることはできないけど、時を取り戻すことはできるかもしれません。

そんなことを考えつつ、今日はグースカ寝ようと思います。
カモがグェグェ鳴いている。おやすみなさい。