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Vol3. 肺炎で死にかけたわたし 藤沢あゆみをつくった100の物語

こんにちは、藤沢あゆみです。

恋愛の本を中心に、27冊の本を上梓し、現在たくさんの方のおなやみや出版についての相談に乗らせていただいているわたし、藤沢あゆみのこれまでの人生を書いています。

Vol3. 肺炎で死にかけたわたし

「かなんな・・・」

母は、口癖のようにつぶやいていたが、ますますかなん状況になっていった。

わたしの左の顔は、日に日に赤みが強くなり、赤い紙を貼り付けたような状態になっていたのだ。

それだけではなく、腫れ上がってきて、熱を持っている。

なぜ、こんな状態になるのかといえば、ひとの体には、無数の細い血管、毛細血管が通っている。もしも、その血管のひとつひとつが、肥大したらどうなるだろうか。当然皮膚の表面に浮き上がるほど、血管の赤い色が濃くなり、腫れ上がった党になるだろう。

わたしの場合、左の目の周りにある毛細血管が肥大して皮膚が赤みを増し、右の顔の倍の大きさに膨れ上がっていたのだ。

母は、わたしの顔に刺激をあたえないように慎重にお風呂に入れた。熱いお湯が顔に触れると、血の巡りが活発になってますます赤みが増すような気がした。

母がわたしをお風呂に入れて、家事の全てを終え、眠るのに毎晩深夜一時になった。

顔が腫れ上がっていて痛いのか、わたしはよく泣いた。

さらには、体も栄養失調のようにガリガリに痩せていた。

ミルクを飲んでも栄養が全て血管に行くのか、左の顔の毛細血管はどんどん肥大し、それに反比例して、体はどんどん痩せていく。

8ヶ月になったわたしを、父母は地元の病院に連れて行った。

すると、国立病院を紹介され、入院することになった。

乳幼児なので産婦人科にかかり、目の周りが腫れているので眼科に行き、呼吸をする力が弱かったので酸素吸入を行った。

栄養失調で抵抗力を失ったわたしは肺炎になり、生死をさまよった。

そう、乳幼児にして、今一番キャッチーな「肺炎で重篤化!」である。

母は20日間、わたしに付き添った。

気が休まる時間はなかった。

わたしがお昼寝をしたわずかな時間に、姉を連れて自転車で買い物に行くのがわずかな息抜きだった。

3つ年上の姉もまだ母に甘えたい盛りだ。そして入院する間、ずっと一緒というわけにもいかないので、京都の叔母に預けられることもあった。

気前のいい叔母は、甥や姪と同じように姉をかわいがってくれて、かわいいものを姉にたくさんあたえ、姉はたくさんのお土産とともにうちに帰ってきた。

わたしの入院や、通院に合わせて親戚のうちを転々とした姉は、おとなの顔色を読むことに長けていた。

姉が弱音を吐くところを見たことはないが、きっとわたしのような妹が生まれたことで寂しい思いをたくさんしただろう。

わたしの入院代や通院代を、まだ給料が安かったサラリーマンの父の給料だけでまかなうのは大変だった。母はお中元にもらうタオルで赤ちゃんのロンパースを作った。

そんな日常の中で、わたしは一歳の誕生日を迎えた。

普通ならばかわいい盛り、そろそろ歩くかななどとワクワクするところだが、それどころではなかった。

そして、わたしは京大病院に連れて行かれ、初めて病名が明らかになった。

血管腫。

読んで字のごとく、血管の腫瘍。

別名はストロベリーマークといってなんだかかわいい名前だが、まったくかわいくない。

皮膚科の藤井先生は、あと1年くらいで治るといった。

ああ・・・一年かかってもいい。この子の顔が綺麗になってくれたらどんなにいいだろうか?

そう思う気持ちは山々だけど・・・母には、それは現実味のない絵空事のように思えた。

(つづく)

おとなになったわたしの等身大の物語

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