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みょうじなまえさん『バベルとユートピア』

以前からずっとみょうじなまえさんの作品が気になっていて、先日初めてSpiralで行われてた展示「バベルとユートピア」を見に行ってきました。
会場に着くと、広く開けた空間の中心に劇場の舞台を思わせるようなスクリーンがあって、天井からは鳥の書割りが吊られてたり、床にはギリシャ神話に基づく図像が描かれた書割りパネルが点々と配置されていました。
スクリーンの前に立つ私は客席にいる観客(傍観者)でもあるし、空間自体が舞台だとすると私は演者(主体的な存在)でもあるのかって。それが一瞬で伝わってくるものになってて、すごいって思いました。

スクリーンに映し出された映像はオウィディウスの「変身物語」に出てくるピロメーラーとプロクネーの姉妹の話がベースになっていました。
妹のピロメーラーが姉の夫テーレウスにレイプされるのですが、ピロメーラーはそれを隠さずに告発するという意思を投げかけたところ舌を切られるみたいなとんでも話で、倫理観0のテーレウスから2人は一心不乱に逃げる展開なのですが、実際の「変身物語」では怒ったオリュムポスの神々から3人とも鳥に変えられるという結末に対して、みょうじさんの作品では姉妹のみが鳥になり逃げることができ、同じように逃げてきた鳥たちと一体となっているシーンも描かれていました。

私は常々ギリシャ神話が(聖書も)男性中心主義に基づいて世界が展開していく点に幾度となくなんでやねんと総ツッコミを入れ続けてきましたが、その雪辱を晴らすかのような結末に書き換えてくださってはいたものの、とはいえ彼女たちが被害にあった苦しみがなくなるわけではなく、これがお伽噺、物語だったとしてもつらいものはつらいなって。
映像には黒くて顔の見えない得体の知れない鳥が時折静かに登場するのですが、ラスト、2人の姉妹と共に安寧の地と思われる場所にもそれは居続けていました。逃げきったとしても心に残り続けるドス暗い思い、不快感や怒り、恐怖ややるせなさみたいなものの象徴のようにも思えました。

女性を引き立て役にあてがう自分勝手な男性キャラクターがたくさん登場するギリシャ神話(「変身物語」も含めて)がなぜ未だに世界中のいろんな人々に読まれるのか、そこには時代を超えてもなお私たちの心を掴んで離さない普遍的な魅力があるからだと思うのですが、「普遍的な魅力」というのが私たちが普段表には出さない心の奥に潜めている欲望、エゴのようなものに対する共感性や好奇心、また矛盾みたいなところなのだとすると、2000年もの間、その潜在的な感覚を失わずにきたという点で、この先も人間は利己的で残忍であり続ける、ずっと繰り返されるという現実にちょっとげんなりしてしまったりもするけど、人のベースにはこういう感覚があるんだということを理解しておくだけでいろんなことへの捉え方や受け止め方にも大きな違いが出てくるのかなとも思いました。

そんなことを身をもって伝えてくれるかのように、虚構の話を表に流しながら、この作品はスクリーンの裏にみょうじさんの私的な経験、事実に基づいたもう1つのアプローチがありました。
目に入ったのはどこにでもあるような洗面台。いきなり現実に引き戻されたような気持ちでシンクを覗き込むと、何か文章が書かれたぐしゃぐしゃの紙が投げ捨てられていました。

その文章は鏡に貼られたQRコードから読み取れるのですが、読んでいて思わず深いため息。みょうじさんの気持ちを想像するとあまりにもしんど過ぎる出来事がそこには書かれていました。
しかし一方で彼女は泣き寝入りせずに痛みを「表現する」こと、すなわちピロメーラと同じ選択されたんやなぁと。都合の悪い事実はなかったことにされたり、悪いのは自分だったのかもしれないと錯覚させられるような事件がたくさんある中で、この作品が持つ意味はとても大きいなと思いました。
みょうじさん自身の強い訴えでありながらも、私たち舞台に立つ主体的な存在への連帯の意思表示や危機感を持つことの警告とも受け取れる。鏡という要素も、映る自分を見て、これは他人事ではない、わたし「たち」の問題であるのだということを強く意識させられました。

ちなみに男性の鑑賞者にとっては、目の前にあるものが事実に基づいて生み出された表現ということから、差別をしていることに自覚的でなかったり、どこか遠い国の話のように思えているものがリアリティを伴って視覚化される機会は大きな意味を持つのではと思いましたが、実際この作品を見られた男性はどんな感情を抱かれるんやろう。
そもそも自覚的でない方はこの作品を見ようとも、見ても考えようともしないのかもしれないけど…。

フェミサイドについて大きなメッセージを発していた先日のDior Cruise2024のショーでも思いましたが、芸術の力ってほんと強い。
アートは美しいもの、綺麗なもの、心地いいものと考えられがちだけど、芸術は痛みを表現できる。人々の意識を呼び覚まし、疑問を投げかけ、またその痛みに寄り添うこともできる。
規模の大小云々ではなく、今、その時に、その思いを閉じ込めずに表現することの重要性よ。(脱線しますが、最近「上野千鶴子基金」が「竹村和子フェミニズム基金」の終了年にバトンタッチするかのようにできたのすごい胸熱ですよね…!!)

というわけで、みょうじさんの文章の冒頭に、笠原美智子さんの著書「ジェンダー写真論」に書かれている文章が引用されていたのですが、気になってすぐ買って今読んでるとこなのですが(私の興味あることが全部書いてあるめちゃくちゃいい本)、同じく引用させてもらって感想を終わろうと思います。
これはまさしく私が対話型鑑賞を用いて目指したいこと。

ある人が私に、フェミニズムとは究極的には「愛」なのではないかと語ってくれたことがある。いかに他者に寄り添って、他者についての想像力を及ぼすことができるのか。自分が今まで依って立ってきた考えや思いを一度、根本的に疑ってみて、自分のパースペクティヴとは相反する側の存在を認め、そこからもう一度考えや思いをいかに再構成することができるか。誰を中心にすることもなく誰を周縁にはじきだすこともなく、それぞれの多様さ曖昧さを引き受けながらいかに理解し合えるか。フェミニズムとは究極的にはそうした高度な愛の行為なのではないかというのである。

笠原美智子「ジェンダー写真論」

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