私よ。→アチャ←コよ。死んでくれ。

現役女子高生の笑い声も微妙な雨粒もすごくうざい。
今日はアルバイト初日だった。覚えることが多すぎて私の頭は可笑しくなりそうだ。
でも、意外と大人を相手をするのは面白い。
4時間のバイトを終えてから、私は銀杏BOYZに助けて貰った。
まわるまわるぐるぐるまわるーといい意味でバカらしく、私が思っていることを代わりに代弁してくれるような、感じだ。

銀杏BOYZを聴くことや大好きなゆきちゃんを見ることは、私にとって私の部分であり、→アチャ←コの部分では無いのだ。
→アチャ←コは夢で殺した。死んだのだ。
→アチャ←コは私というものに囚われた。
私も同じく→アチャ←コというものに囚われた。
お互い足を引っ張っていたのだ。
もし、私が殺されて、→アチャ←コだけが残ったらどうなるのか。恐ろしい。
今は→アチャ←コは恐ろしい。

生きたいのだ。生きたい。死んでたまるか。
サンタさんのお告げやピーターパンに従わなければならない。そう。私はメルヘンに生きたい。

どうせ生き返るのだろう。→アチャ←コ。
→アチャ←コは永遠なのだ。
→アチャ←コが生き返った時、私はどんな表情をしているのだろうか。母親が子供を見るような目で→アチャ←コを見ているだらうか。
楽しみだ。

♪おわり♪


→アチャ←コ(16歳)のメルマガ用文章は以上だが、有料配信としてはボリュームが足りないから、広げるか深めるかしてほしいと注文をつけたところ、「今は自分の中に→アチャ←コがいることがきついので、→アチャ←コを切り離したい。だから→アチャ←コとしてはこれ以上は書けない。」とのことだった。この文章に対する私の考察を捕捉的に足していいか聞くと、「踏み散らかさないでくださいね」という手厳しい返信が来た。
創造に伴う破壊欲求がある私が持つある種の暴力性を、彼女は敏感に察知している。

このアトリエに来るようになってから約1年。私に見えている彼女の姿は、感受性豊かという綺麗な物言いが相応しくないくらい、過激だ。その過激さは芸術を行うことについての才能だと、私は思う。まだそのことに慣れていない彼女にとっては、そんな風に考えられる余裕もなく、意味合いもわからないのだろう。若い時はエネルギーだけが渦巻いていて、その自分の過剰なエネルギーを上手く扱うことができず、渦中に飲み込まれやすい。それが外に放出する場合と、内に抱え込み自然消化を待つ場合とに別れるような気がする。どちらにせよ、自分でコントロールできない。

バランスや距離を取ることを身につけてしまった私からすると、それはある意味羨ましい。出産と同様で、完全に自己コントロールを失った領域にしか、自己を超えた創造は生まれないからだ。まあそんなことを言ったところで、彼女の救いになどなるはずもなく、私は観察者でしかない。

世界と折り合いをつけるために、どうしようもない生きづらさを表現として生んだ→アチャ←コが、今度は力を得すぎてしまった。そのことの恐怖。つまり彼女自身と→アチャ←コは同一ではない。つまり生み出したもの。つまり→アチャ←コそのものが作品。作品が作者を超える。それは多くのクリエイティブな人が望む結末なのだけれども。まあ、これもまた彼女の救済にはならない話。そして私は彼女を救済したいとも思っていない。彼女の苦しみは、彼女のものだ。宇多田ヒカルが元夫の紀里谷さんと離婚した理由が印象的だったな。「彼は私を救おうとした。私は救われることを望んでなかった。」宇多田ヒカルの思いを、彼女はどう感じるのか。

何だかディープな話になってしまったが、→アチャ←コは今彼女の中から家出中らしいので、それを私の視点で見てみただけの話です。次回は新月12月23日(金)に私のアトリエ内のお話メルマガです。

なお、各初回のみ一般無料公開していますが、次回からは有料となります。noteをご覧の方はメルマガ登録か購入をお願いします。既に登録されている方は引き続きご覧ください。

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