見出し画像

水樹 香恵(23歳)『ペンキ塗りのアイボリー』②



3、リストランテの看板娘

完全なる雨季を迎えたシアンタウンは清純で慎ましやかな空気を纏い"しとしと"と泣いていた。
どこから現れたのか大勢の蛙が様々な音階で歌い始め、真夜中であるにも関わらず響く音が騒がしい。
命ある者を認識しながら眠りにつくのは、少なくともアイボリーにとって随分と懐かしさを覚える稀有な出来事だった。

時計の盤面に張り付いた秒針の動く音がやけに重い。

普段なら全身に巡り渡る様に脈打つ自分の鼓動がどこか遠くに感じて、両手を強く握り締めなければ分裂してしまいそうな、そんな有りもしない不安に駆られていた。
夜中の3時を過ぎ、辺りの風景は朝へ向けてじわじわと暖かみを増す。身体はとうに重怠いのに頭だけはいやにクリアで、余計な思考を延々と繰り返すばかりだった。
「眠れない……」
ぽそりと呟いた声がやけに大きく聴こえて、アイボリーは反射的に掛け布団を手繰り寄せ身体を震わせる。

この数年で一瞬たりとも感じた事の無かった"ひとりぼっち"を、骨の髄から魂に至るまで思い知った瞬間だった。

アイリスが家を出て行ったのは両親が出張先の事故で亡くなって直ぐの頃。振り返れば3年以上前の事になる。元々姉妹仲はあまり良く無かったが、それが最悪の状況で悪化してしまった。もうかれこれ数年はまともな対話が出来ていないし、目を合わせようとした試しも無い。
そんな状況の中、彼女に彩りを与えたのがルドーである。
去年の冬、シアンタウンの南に位置するキニゴスパークのシンボルとも言われている巨大噴水の塗装作業中、「写真を撮らせて欲しい」と唐突に声をかけられたのが始まりだった。仕事中であるにも関わらず断りを入れることも無く、自ら名乗る事もせず、まるで以前から顔見知りであったかのようにフランクに話しかけてくるものだから、当時のアイボリーは至極気味悪がった。当然だろう。こんな若者まで不審者とは世も末である、と無視を決め込んで作業を続行したのは記憶に新しい。
そんな出会いだったからか、ルドーがいつの間にかアイボリーの名を知り、何を思ってかイヴと呼び始め、教えたはずの無い職場や実家に訪れる様になってもアイボリーは特に気にする事も無く、かといって深く介入する事も無かった。一人暮らしの女性がとる自己防衛としては正しい判断である。
彼がいつどのタイミングでアイボリーの事を知ったのかは定かで無い。両親が生前営んでいたホームデザインを中心とする便利屋を継ぎ、過剰な出費を避ける為に安価なペンキ塗りを始めたアイボリーは街の至るところで目撃された事だろう。興味を引く対象には成り得る。この街に住む者ならば週に1度は目にするであろう光景のひとつとなっていた。
問題はアイリスに対する認識の齟齬である。
陽の光を避け丁寧に大切に育てられてきたアイリスは地域住民との交流がほとんど無く、シアンタウンの出身である事もつい最近明かされた程にプライバシーの保護が徹底して行われていた。勿論彼女が未成年である事が第一の理由だったが、何よりもアイリス本人が情報の開示を拒んだのだ。彼女の年齢、生年月日、血液型、志望動機全てが謎に包まれており、新進気鋭のソロアイドルとしてデビューした当時はインターネットを大いにざわつかせていた。

同じ血を通わせた正真正銘の家族であるアイボリーですら知らない彼女の幼少期。そして将来の夢。

何故ルドーは知っていたのだろうか。

「バカね。辛気臭い顔してどうしたのかと思ったら、そんなこと?」
客も疎らになった辺りで接客用のエプロンを脱ぎながらヴィオレは吐き捨てる様にそう言った。
「そんな事……って、だって、分からなくて……」
レストランアデッサの入口から最も離れた隅にある特等席ーー観葉樹に囲まれまるで森の中に居るかのような空間になっており、人目を気にせずリラックス出来るアイボリーのお気に入りの場所であるーーに腰掛けて項垂れていたアイボリーはふ、と溜息を零す。
「分からないから、相談に来たの」
両手で包み込んだティーカップのカフェオレはとうに冷えていてひんやりとしていた。色鮮やかな植物が描かれたソーサーの縁に載せていたマドラーが音を立てず転がり、落ちる寸前で慌ててそれを掴む。ステンレス製のマドラーはこの店の食器類には珍しく何の装飾も無いシンプルなもので、やはりひんやりとしていた。
アイボリーの斜め向かい側の席に腰掛けたヴィオレはきつく結んでいた髪ゴムを解いて、軽やかな笑みを浮かべながら頬杖をつく。
「そんなの、アンタに会う前から妹サマと交流があったってだけでしょ。で、妹サマを通じてアンタの事知って、近付いてきたのよ。オカルトじゃないんだから。真剣に考えるだけ無駄よ。肩の荷降ろして気楽に生きな」
「それは……そうかもだけど……」
「何よ。アンタ、最近口開けばアイツの話ばっかじゃない」
ヴィオレの真っ直ぐな言葉につきりと胸が傷んだ。
「……ルドーに生活が侵食されてる気がする」
「そりゃもう、見てりゃ分かるわ」
「別に嫌な事されてる訳じゃないから放って置いたの。仲良くなったって後から実害が出たら怖いし。でも変に報復とかされたら怖いでしょ。だから無視も出来なくて……」
「反応が正しく変質者に対するソレよね。仮にも自分に好意を寄せてるであろう相手にその態度たァね、慈悲もクソもへったくれもありゃしないわ。ウケる」
「笑い事じゃないんだってばぁ」
アイボリーが眉を寄せてヴィオレの肩を軽く叩く。
閉店間近で客の居なくなった店内にふたりの笑い声がこだました。
「当然でしょ。ココはレストランで、お客が飲食を楽しむ場所なの。生活相談所じゃないのよ。甘えんな」
「わぁ、手厳しい……」

「ちわぁーす」
朗らかな声音と共に戸口の鐘がカラカラと鳴る。来客だ。
「ちょっと待ってな」
ヴィオレがそう言って去った後、手持ち無沙汰になったアイボリーはすっかり分離してしまったカフェオレに口をつけた。ちょっぴりほろ苦くて、甘い。
レストランアデッサの一人娘ヴィオレと言えば、街で知らぬ者は無しという程艷麗な容姿に鉄火肌な気質を併せ持った女性で、おっとりとしていて穏やかな雰囲気の両親とは似ても似つかない冷淡な接客が一部の客層に好評を博し、店の売り上げの3割アップに貢献しているという専らの噂がある。
アイボリーが彼女と出会ったのは幼少の頃。ヴィオレの母がアイボリーの両親へレストランの内装を依頼して以降続く仲で、もうかれこれ10年以上の付き合いになる。当時アイボリーは7歳で、ヴィオレは9歳だった。きょうだいの居ないヴィオレにとってアイボリーは妹の様な存在で、長子であるアイボリーにとって物知りで頼り甲斐のあるヴィオレは正に憧れの的だった。それは今でも変わらない敬慕であり、じくじくと心を焦がす羨望でもある。
花弁を模した店舗照明が生み出す淡い橙の光が手元を照らし、ティーカップの金縁が眩く煌めいた。

「悪いねお客さん、今日はもう閉店だからお構い出来な…………って。あぁ。なんだ、キミか」
「アッ!! オフの日モードのヴィオレッタだ! ラッキー! 今日のおれツイてる!」
突然の大声にアイボリーは肩を大きく震わせる。ドキドキと鳴り響く胸に手を当てて落ち着かせながら、植物のパーティションに遮られ視認出来ない二人の会話に聞き耳を立てた。
「ハァ? どうせアンタは毎度ソレ目当てで遅く来てんでしょうが」
「なんだよ〜、男なら誰だって女の子のイメチェン気になんだろ。普通じゃん。大げさにでも褒めんのが男の嗜みってやつなんだぜ」
「どこの悪餓鬼に教わったのよ。大人になって後悔するから今のうちに縁切りなさい」
「えっ…………父ちゃん……」
「あぁ……」
ヴィオレの心底落胆する溜め息が聴こえる。
「まぁ、丁度良いわ。上がりな」
「エッ!! マジで! 追い返されないの初めてだ!」
「はいはい、荷物はいつも通りレジの横辺りにでも置いといて。用があるのはこっち」
カツカツと鳴るパンプスの後にだむだむと重たい足音が重なる。
「あれっ?」
聞き覚えのある声にアイボリーははっと顔を上げた。
ヴィオレの背後からひょっこりと顔を出した人物。
「"イヴ"ちゃんじゃん」
それは、先日ウインクガーデンで開催された祭りで出会った少年ーーオランジュだった。

「さ、作戦会議を始めましょ」

「作戦会議……?」
ヴィオレの唐突な発言に、2人はほぼ同時に反応してしまう。
「それって何の?」
「おれに関係ある話?」
オランジュは首から下げていた麦わら帽子を椅子の背柱に掛け、ヴィオレの真横に腰掛けた。
「大アリだよ。アンタはルドーの知り合いでしょうに」
「あぁ〜。…………え、って事は何。ルドー、なんかやらかした感じ?」
「やらかしたっていうか、現在進行形でやらかしてるのよ」
「えぇ〜……」
「だから打倒ルドーに向けて、作戦会議、すンのよ」
「ちなみにソレ……ルドーは何やらかしてんの?」
「アイボリーに対するつきまとい、待ち伏せ、個人情報の特定……えぇっと……その他諸々の迷惑行為」
「嘘だァ!! ルドーがそんな事する訳ないだろ。冤罪だ!エンザイ!」
「ははぁん、そんな事言っちゃって良いのかしら。アイツの味方するんならこっちだって黙っちゃいないよ。ねぇ、アイボリー」
「えっ、……いや、うぅん……」
白熱する対話の中、完全に置き去りにされていたアイボリーは何だか居心地が悪くなって堪らず顔を伏せた。
「……私は別に、懲らしめようなんて気は無いし、今のままで、良いと思ってるの。ただ、ルドーは私の事たくさん知ってるのに、私は彼の事をなんにも知らないから。ずるいって思う。だから、知りたい……だけ」
「……アイボリー……」
ヴィオレはハッと笑い声を漏らすと思い切り背伸びをして、深く、深く溜息をついた。倦厭や諦念では無い、安堵の吐息である。
「あぁ、そう言うと思ったよ。そもそもこんなのアタシのガラじゃないしね。はい、お遊びはお終い」
「えーッ! 何だよそれ、もう終わり? 全部おれをダマす嘘だったってこと?」
「やぁね、誰がそんな意味無い事するのよ。アイボリーがルドーの所為で困ってんのはホント。それをアタシがどうにかしてやりたいのもホント。アンタは貴重な情報源なんだから。ホラ、さっさと吐きなさいよ」
「うわコレ続いてんじゃんごっこ遊び!」
「はは……っ」
アイボリーは思わず自分の口から漏れ出た笑い声に驚いた。
「ごめんなさい。こんなに賑やかな事、なかなか無くって……」つい反射的に謝罪する。
「…………なんだ、"イヴ"ちゃん、ちゃんと笑えるんじゃん」
「え……っ?」
オランジュがふいに呟いた言葉に、アイボリーの身体がぴくりと反応した。
「何当たり前な事言ってンのよ。アイボリーだって笑うわよ。可愛いんだからね。舐めんな」
「あ、いや、そういうんじゃなくてさ……」オランジュは一拍置いて大きく息を吸う。「こないだ祭りで会った時は、うわべっつらで笑ってんなぁって感じだったんだよ。なんかさ、仮面被ってるみたいな感じでさ。おれ、人形が動いてんのかと思ったもん。正直近づきにくいっていうか、不気味な感じもしたんだよね」
「……」
「それが今は、ちゃんと人間だなぁって感じた」
真正面からアイボリーを見据えたオランジュは「にひっ」と笑って見せた。太陽の様に暖かな笑みである。
「…………私、笑えてなかったかな」
アイボリーが小さく呟く。
「え?」
「あの時。ルドーの隣に居る時。私、笑えてなかったのかな」
「うーん……。笑えてなかったっていうか、笑おうとしてなかったっていうか、」
「…………」
口を真一文字に結んだアイボリーは至極むつかしい表情を浮かべ、片手で自身の頬を擦る。対人関係の希薄さからか、普段どんな顔をしているのか、そしてそれが他人からどう見えているかなど気にした事も無かった。
「まぁ、そこに関しちゃ深く考えても仕方ないでしょ。それよりもっと有意義な話をしましょうよ」
ヴィオレが場の空気を整えるかの様に立ち上がり手を叩く。
「まずはヤツに関する情報共有から始めましょうか」
言い終えたちょうどその時、時刻は午後6時を過ぎ、一斉に窓の外の街灯が灯り、観光客へ向けた帰郷を促すアナウンスが流れ始めた。

「これからは悪い子のお時間」

後にオランジュは語る。
この時、ニッと微笑むヴィオレの顔はツンと跳ねた狐目と逆光が良い塩梅に混ざり合い、命を狩る死神の様な形相をしていたのだという。

ピシャン、と。
かなり近い場所で雷の落ちる音がした。

人気の薄れた石畳を往く。
機能性を重視して特注で作らせた晴雨兼用傘は一般的な物よりやや重みがあり、肩が凝りやすいのが難点だ。
アイリスは高い湿気に汗を流しながら灰色に濁った曇天を見上げた。
「ぴっ、とん、とん。ぱた、たっ、ぱら」
そっと耳を澄ませて、周囲の物音に合わせながら即興の歌を口ずさむ。
「ら、らら、……ら」
鼻から抜ける様な透き通った歌声が左右に並び立つレンガ造りの壁に反射して辺りに染み渡ってゆく。
睫毛を濡らす雨粒がじんわりと暖かみを帯びた辺りで、何故だが無性に虚しくなって止めた。

観光客の居なくなったシアンタウンは真昼間の賑わいが嘘の様に侘しさを醸し出す。
傘の小間を叩く雨音が次第に激しさを増し、アイリスは自然と歩を早めた。
左手に抱えているエーデルワイスの花束を見下ろして、花の周りを彩る赤い包み紙を指でピッと弾き、満足気に笑みを零す。
「"ふたりぼっち"だね。"バーガンディ"」
黒と薄灰のフリルに包まれたワンピースを身に纏う彼女の後ろ姿は、葬儀の参列者のような儚い憂いを帯びていた。

"winery カシェット"。

木造の扉には掠れた文字が刻まれている。
「ウェルカム、ウェルカム、ようこそ、お客人」
萎れた花々に覆われたインターホンからたどたどしい機械音が流れた。
「合言葉をどうぞ」
近くの壁に傘を立て掛けたアイリスは、扉の中央に描かれた白い鳥に向かって微笑する。

「"あの日死んでいった全ての感情たちへ"」

数秒ほど間を置いて、カチリという音と共に扉が開いた。
そうして、宵闇に吸い込まれるように少女は姿を消す。
ギィ……という耳障りな音を立てながら、古びた戸は閉ざされた。

残された傘の石突に一匹の蛙が飛び付く。
滝の様な豪雨と共に、街は深い夜を迎えた。

(③に続く)。

次回メルマガ配信は6月4日(満月🌕)です!小説の続き③の配信です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?