Annaの日記 「おさがり」のおもみ
40過ぎまで独身だった私は、コロナを期に「お母さん」の友達との縁を切り始めていた。コロナという最大の「言い訳」をつけて、子育ての話でもう話が噛み合わない、子供の声がうるさいくて会話が成り立たない環境で会う友達だちよりも、うだつの上がらない会話をつまみにビールが飲める「オヒトリサマ」女子達と、自由な時間の中で、稼いだお金で自由に遊べる時間のほうがよっぽど楽しかった。
そんな中で、一人だけ、縁を切らずに繋いでいた「お母さん」友達がいた。兄の中学からの友達の奥さんだ。もう親戚みたいな兄の友達、少々難しい面があり、自分の事を棚に上げてその人が結婚出来るのか心配していたところ、こんな素晴らしい嫁が来たと喜んでいたら、1歳上の彼女と旦那を通り超えて仲良くなった。
妊娠がわかった時、普段会うメンバーを差し置いて、一番にこの人に報告をした。
住む場所も全然違い、子供もいるので普段も連絡を取り合う仲ではないが、何故かこの人が一番に頭に浮かんだ。
とても強くて尊敬できるお母さんだったからかと思う。
4年半の不妊治療を乗り越えてお母さんになった人だ。
妊娠中も重度悪阻に、切迫早産、そしてコロナ初期の世の中が混乱している時の帝王切開出産だった。
「鳥肌がたった。バス停で泣いた」
彼女らしい嬉しい返事だった。
それから1週間もしないうちに連絡がきた。
おさがりに抵抗がなかったら、ほとんど使ってない物もあるから使わないかという内容だった。
あれ・・・?
しばらく連絡していなかったが、確か二人目の不妊治療に入っているはず・・・
彼女の嫁入り先は、どうしても「後継ぎ」の男の子を望んでいて、一人目が女の子だったので、帝王切開の傷が癒えたら採取してある卵で二人目と聞いていた。
私の疑問を察したのか、続けて
「もう私の妊娠計画は終わったんだ!」
と、やや明るめなLINEが入り、数日後にzoonで話をすることになった。
彼女は終始穏やかな顔で乱れる事もなく、やり切ったという感じで明るく今までの話をしてくれた。
3つ残った卵。体外受精で治療をしたが、2回は妊娠に至らず最後の卵で妊娠した。
赤ちゃんは21週でダメだった。
この時はまだ私が妊娠に関する知識がゼロだった為、21週の赤ちゃんの大きさ、いわゆる18週の壁、「ダメだった」の本当の意味。色々聞かせてもらったが、正直ピンと来ていなかった。
彼女の明るい話し方にも、やり切ったという達成感でこんな感じで話しているのかなと思っていた。
6箱にも及ぶ、段ボールいっぱいに赤ちゃんグッズをくれて、今あんなはほぼ彼女のおさがりで生活をしてる。
彼女のきちんとした性格上、段ボールの外に「●●ヵ月から」と記入があったので、最初の段ボール以外開けていなかった。
そろそろ次のステージに進むので、いったん全部あけて整理することにした。
丁寧に丁寧にたたんである洋服。
色は黄色や白が多かった。
この意味が分かった時、どっと涙がでた。
二人目を望んで、どちらでもいける色にしていた事
21週の赤ちゃんの大きさ
稽留流産の意味
ダメだったの本当の意味、死産という現実
もう二人のお母さんにはなれない事
あの時はわからなかった。どれだけ辛い経験をしたか。
それらの大切なものを「あんな」に託してくれた事。
私のためではなく、二人目の子用に自分への使い方のメモがたくさん貼ってあった。
使っていない新品もたくさん出てきた。
新生児段ボールでも、哺乳瓶やらスタイやら新品が山ほど出てきて
その時は、長い不妊治療からの待望の赤ちゃんだったから
意気込んで大量に買ったんだなくらいにしか思ってなかった。
二人目に使うようにとっておいたんだなと思うと、
この「おさがりの重み」をすごく感じた。
来月、3歳になった娘ちゃんと初めてあんなは会う。
その時に、彼女が着ていた服を着せていく予定だ。
山ほどの服の中から一番かわいらしい服を選んだ。
新品の服がたくさんあるのに、その服は
毛玉が出来ていた。きっと気に入ってよく着せていたのだろう。
あんなが着ている姿をみて、
彼女は何を思うかな。
辛い事思い出さないかな・・・
喜んでくれると・・・いいな。
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