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エチオピアを共に旅したヤギが「晩ご飯」に出てきた

私を乗せたジープは、ひび割れたエチオピアの大地を走っていた。

辺りには、村もなければ草木も生えていない。

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道の途中、男の子が子ヤギを抱え、ぽつんと立っていた。

「こんなところで何しているんだろう」

ぼんやり思っていると、ドライバーは男の子の前で車を止め、荷台にその子ヤギを積み込んだ。

長時間の移動で暇を持て余していたので、突如現れた動物に一同は大喜び。「ヤギ太郎」と名前をつけ、みんなでかわいがった。

たまに聞こえる小さな鳴き声に癒される。車内はパッと明るくなり、和やかな空気に包まれた。

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さらに3〜4時間ほど走り、小さな村に到着した。

すると、カラフルな布を身に纏った女性が荷台のドアを開け、ヤギ太郎を勢いよく車から引きずり降ろした。

「べェエエエエエエエエっっ!!」


けたたましい鳴き声が辺り一面に響き渡った。

ヤギ太郎は恐怖のあまりか排泄物を垂れ流していたが、女性はそんなことお構いなしの様子で向こうへ引きずっていった。

あまりの衝撃で、私はただ茫然と眺めていることしかできなかった。


その夜、嫌な予感は当たった。

晩ごはんには、焼かれた肉が用意されていた。

「新鮮なヤギだからおいしいよ!」

「え?ヤギって..」

「さっき車にいた子よ」

やはりあの子ヤギは、お客様をもてなすためのご馳走だったのだ。

目の前で肉を捌き、ご馳走として振る舞ってくれる話はよく聞く。しかし実際にその現場に遭遇すると、誰だって衝撃を受けるだろう。肉好きの同行者でさえ、怯んでいた。

そもそもがベジタリアンである私は、何も言葉が出てこなかった。

物心ついた頃から、動物や魚の命を奪うことがかわいそうに感じて、肉や魚を食べられない。味も食感もダメで、噛むと嗚咽や身震いが出てしまう。見ることでさえ苦手なため、スーパーの生鮮コーナーはいつも足早に通り過ぎる。

それくらい無理な私の前に、さっきまでかわいがっていたヤギ太郎が変わり果てた姿で現れた。

正直、食べたくはなかった。

しかし拒否したところで、ヤギ太郎は生き返らないのだ。食べなかったら、そのまま捨てられてしまう。

いま私にできることは、感謝して食べることだけだと悟った。

目を瞑り手を合わせ、ヤギ太郎のことを想い、私は覚悟を決めた。

「いただきます」

肉の塊を口に放り込み、噛むたびに出そうになる嗚咽に堪え、胃に流し込む。

「ごめんね、ありがとう」と心で唱え、涙を流しながらお皿の上の肉を全て食べた。

その夜はヤギ太郎の鳴き声が耳から離れず、なかなか寝付けなかった。恐怖で怯えていた光景を思い出し、今まできちんと動物の命と向き合ってこなかったことに気がつかされた。また心の底から食べ物に感謝し、「いただきます」を言ったことも初めてだった。

この体験がきっかけで、肉や魚を食べるようになった、というわけではない。

しかし、自分の中で変化したことがひとつある。

それは、「私はベジタリアンです」とためらわずに言えるようになったことだ。

今までは、人との食事のシーンで「肉や魚が食べられない」と言い出せなかった。言おうものなら「こんなにおいしいのにどうして?何なら食べるの?」と根掘り葉掘り聞かれたり、「人生損しているよ!」と非難されたりすることが多かったからだ。

そのたびに「変なやつだ」と思われているような気がして落ち込んだ。

自分が傷つきたくなくて、食べるフリやお腹いっぱいのフリをしてその場を凌ぐ日々。今までにいったいどれだけの命を、手をつけずにゴミ箱送りにしていたのだろうか。

ただ捨てられるのであれば、何のために動物は恐怖を感じて殺されたのだろうか?

今までの自分の振る舞いに、とても反省した。

自己保身のために食べるふりをして、肉や魚を残すのは、この日を境に一切辞めた。私が「食べない・買わない」を徹底すれば、肉に変わる動物が一匹でも減るかもしれない。救える命があるかもしれない。少なくとも手付かずのまま廃棄されることはないはずだ。

ベジタリアンの私が選んだのは、「食べない」と初めから意思表示し、命を無駄にしないこと。

ヤギ太郎が、私を「命」に向き合わせてくれた。





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