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とりあえず、読んだらわかる。【「もうあかんわ日記」岸田奈美】

本を読んで声をあげて笑ったのは、本当に久しぶりだ。

このレベルの笑いは、マンガ「ピューと吹く!ジャガー」以来。

(ちなみにあと漫画で好きなのは「ねこの猫村さん」)


今回私が読んだのは、岸田奈美さん作「もうあかんわ日記」

この本は……ほんっとーーーーーに……

とまで書いたものの、その先に本の感想を表すための適当な言葉が見つからなかった。

読み始めたら止まらなくなって、2時間で一気に読んでしまった。

もちろん笑えるほど面白いんだけれど、ただの面白いではない。

なぜなら日常のドラマティック(?)すぎる出来事を、岸田さんが独自のユーモアセンスで言葉にしているからだ。

*  *  *

著者の岸田奈美さんとは……

1991年生まれ、兵庫県神戸市出身、関西学院大学人間福祉学部社会企業学科2014卒。在学中に株式会社ミライロの創業メンバーとして加入、10年に渡り広報部長を務めたのち、作家として独立。世界経済フォーラム(ダボス会議)グローバルシェイパーズ。Forbes「30 UNDER 30 JAPAN 2020」「30 UNDER 30 Asia 2021」進出。2020年9月初の自著『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』(小学館)を発売。

もし仕事や恋愛、人間関係などにくじけそうになったら騙されたと思って本書を読んでみてほしい。

ちなみに私は読み終わったあと、しばらく思い出し笑いをしながらニヤニヤしていた。

*  *  *

今回は本書の中でステキだと思ったところを、テーマで分けて紹介します。

「読書感想文」という本来の趣旨から外れてしまいますが、シンプルに引用のみの方がいいと思ったのでそうさせていただきます。

きっと岸田さんの言葉たちが、心をほぐしてくれることと思います。


家族から考える

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よく、介護のパンフレットの表紙なんかには、祖父母に優しく笑いかけている写真が載っている。あんな笑顔、できるかいな。少なくともわたしには。愛する家族だから、一緒に住んでいるから、笑いかけられないのだ。どんだけがんばって、心穏やかに接しても、ばあちゃんはすぐに忘れてしまうし。弟は言葉のすべてをわかってくれるわけじゃないし。母には心配かけられないし。
弟のぜんぶを好きなわけではないけど、弟のぜんぶに救われている。だから原稿では、いいところをたくさん、書く。書くと、いいところが濃縮結晶化して、100年先も残って輝いているような気がする。
見たいものだけ視界に入れ、知りたいものだけ読んでいる。それ以外のめんどくさいものは、シャットダウン。もしくは、ポカンと忘れ去る。……これを無意識にやっている。人間が老いてもできるだけ長く生きていくための、ストレスフリーな人生術なのかもしれない。本人のことだけを考えれば、よくできている仕組みだ。


死に対して

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葬儀はたぶん、悲しみや愛情をできるかぎり見える化することで、あっちとこっちでお別れという線を引き、残された人たちが生きていくための儀式なんだろう。故人のためと言いつつ、故人のためではない。だから、お念仏とか、お焼香とか、手を合わせるとか、花を入れるとか、そういうひとつひとつの仰々しい行動が大切なのかもね。
わたしには経験則がある。大切な人が死んで、泣き濡れる日から、過去と未来を考えないようにして、だましだまし暮らす日々に変わるまでが、だいたい1年。そういうこともあったねと笑って思い出せるようになるまでが、だいたい10年。とんでもない悲しみでも、砕けて砂になっていくまでのだいたいの目安がわかっていると、とりあえず絶望はしないと思う。地図があれば、ただ歩いているだけでも、歩んでいくことになる。


単純におもしろい

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満を持して『マイノリティデザイン』という本を世にジャジャジャーンした、澤田智洋さんと対談だった。
すっかり日も暮れてしまったので、三宮の阪急百貨店の地下で、お弁当を調達していた。物色していると、これが目にとまった。令和のたしなみ弁当。平成のわかりみ弁当。昭和のしゃかりき弁当などもあるのだろうか。
「おいなりさん、美味しいよなあ」ふと気がつく。なぜ、いなり寿司に敬称をつけるのか。弟のことは良太と呼び捨て、わたしですら奈美ちゃんだ。娘と息子よりも、食卓のいなり寿司の方が地位が高い。……さんをつけるものと、つけないものの違いって、なんだろう。さんがついていると、途端に息が吹き込まれた、体温あるものに感じる。親しみがわくというか。
織田裕二ですらレインボーブリッジを封鎖できなかったのだ。岸田奈美が洗濯機をそう簡単に封鎖できるわけがない。助けてサムバディトゥナイ。


ナミップリン流考え方

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かのチャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言った。わたしことナミップリンは、「人生は、ひとりで抱え込めば悲劇だが、人に語って笑わせれば喜劇だ」と言いたい。
感謝したいときに、それを伝える相手がそばにいないこと、けっこうあるね。そういうメッセージをいつも見逃さないように、気をつけて生きていきたいよ。
人生の幸せっていうのは、人と比べるものではなく、自分の経験のなかで比べるものなのかもな。
人を愛するとは、自分と相手を愛せる距離を探ることだ。わたしはばあちゃんを愛している。だけど、このまま一緒に暮らしていたら、愛せない。だってばあちゃんは、わたしと弟を悲しませ、ばあちゃん自身も悲しませるものだから。怒りは悲しみと似てる。
わたしたちは、気持ちを理解しようとする謙虚さは必要だけど、気持ちを理解できるという高慢さは捨てなければ。
迷惑とは、あるいは弱さとは、周りにいる人の本気や強さを引き出す、大切なもの。だからこそ、お互い迷惑をかけあって、それでも「ありがとう」と言い合える関係を作れたなら、これ以上の幸せはありません。
自分の頭のなかに、先人の言葉や知恵があるほど、絶望に陥りにくい気がする。どこにも答えも経験もないことに、目の前は真っ暗になりがちだから。
自分の意見らしきなにかをTwitterで投稿したとき、100人は「ええやん!」的な反応だったとする。だが、1人でも「こんなんあかんわ」的な反応があると、100人のええやんがかき消されるくらい、動揺してしまう。すべての人からワッショイされる人生ではないので、気にしないようにしているけど、どうしてもふとしたときにチラッチラと、ネガティブな予感が顔を出す。それまでの勢いを殺し、足を引っ張る。1%でも不安や危険があるかぎり、わたしたちは、己を守って生きるために、注意を払おうとするのだ。それは野生の本能だ。
私たちがスムーズに生きていくために都合がいい人を「健常者」、都合が悪い人を「障害者」と呼ぶのは、なんかずっと、ぎこちない違和感がある。だからといって、障害者って言葉をやめましょうとまでは、思わないけど。
失敗って、したらダメなことではないんだよ。成功に近づいていくことだから。命に危険あるとよくないけど、そうじゃなくて前向きな失敗はどんどんしたらいい。
でこぼこしているので車いすやベビーカーを使う人にとってはガタガタして不便だ。だれかにとっての便利は、だれかにとっての不便。だれかにとっての幸せは、だれかにとっての不幸。ユニバーサルデザインとは、「だれもにとって便利で快適で安心なもの」ではなく、「前向きなあきらめと、やさしい妥協と、心からの敬意があるもの」だと、わたしは思う。そりゃみんなにとってパーフェクトなものを、人類は目指さなければいかんのだけど、何億光年かかるかわからん。あきらめと妥協と敬意は人にしかもてない、強い意志だ。
そもそもわたしは怒りや苛立ちのエネルギーを人にぶつけるのが嫌いなのだ。いい人だからではない。「そんなこと言ってる自分が嫌い」になるのだ。わたしは自分が大好きなので。


「もうあかん」を共有する

手の平バツ

父が亡くなったあとも、母が手術しているときも、思ったことがあります。死を前にして、はじめて、人は勇気を出せるし、心から感謝もするし、なに気ないことに幸せを感じるということ。死ぬことにぶち当たると、生きることにもぶち当たる。死ぬっていうのは、大切ななにかを失うこと。日常をぶっ壊されること。絶望の底まで落ちること。つらく、悲しい。

「もうあかんわ」は、わたしにとって、小さな死でした。
もうあかん。これ以上はがんばれん。つらすぎる。しんどい。ぜんぶやめたろかな。

そんなことをこのところ毎日、思ってきた。毎日、小さく死んできた。でも、死のあとには生が始まる。命が永遠ではないのと同じで、もうあかん時間も永遠には続かない。文章に書いてしまえば、不満だらけの現在は、たちまち過去だ。……もうあかんは、人と共有すると、しばらくしてからよいものに変身する。悲劇は、意思をもって見つめれば、喜劇になることがある。

だれかが、もうあかんと伝えて、それが届いてはじめて、変わることってあるはずだもんね。

たまたま今日図書館で、隣の方が「もうあかんわ日記」を読んでいました。

その方もきっとわたしのようになにかを感じられたのでしょう。


「もうあかんわ日記」

これからまた、何回も何回も読み直していきたい一冊になりました。

わたしも「もうあかん」をどんどん伝えていけるように。






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