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人生は意思決定権の奪い合い

今回の記事は、ある種暴力的な概念に関する議論となります。


皆さんは、今までの人生において「自分の行動を他人に恣意的に決定されたり、強要されたりした経験」はないでしょうか。

ほとんどの方は、過去に親、もしくは育て主に「ああしろ、こうしろ」という半強制的な指示を受けたり、就学時代に主に団体行動で様々な制約を受けたりしたかと思います。

もちろん、教育機関などが施すこういったある種の制約は、教育の一環のためであったり、特に将来的に社会の中で営んでいくためのノウハウを学ぶことが主目的です。

しかし、世の中にはそういう刷り込みを利用し、他者を一方的に利用・搾取するやり取りが(想像以上に多く)存在します。こう述べると少し大げさですが、おそらく皆様は(小さいことも含めれば)この手のやり取りは「する側もされる側も」数多く経験をしているのではないでしょうか。

例えば、飲食店などでちょっと横柄な態度を取ったり、相手と何らかの約束をするとき、ちょっと強引に約束を取り付けるようなことは(頻繁にではないにせよ)何度か経験をしているのではないでしょうか。

上記の例に該当しないという方でも、客観的に見てそういう風に受け取られる振る舞いを一切したことがない、と自信を持って言える方は実のところほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。

人は人間である以上、常に何らかの欲求が存在し、それが原因で周囲の人への配慮を欠くことは、実のところ誰にでもやってしまう可能性をはらんでいます。

ただし、度が過ぎた行為にはコミュニティの人々が注意をしたり、その人物に対し社会的な制裁を加えることで、私達の社会には(完璧ではないにせよ)文化的な暮らしが成立しています。

とはいえ、世の中では人間関係におけるトラブルはつきものであり、「度が過ぎた人」というのは時として私達の頭を悩ませることが多々あります。なお、「度が過ぎた人」がその手の言動を起こす理由は、「自分の権利が増える」ことや「快感を得られる」、「安心感を得られる」などの数多くのメリットを享受できることに起因します。

このメリットを楽に得たい人々の目論見により、世の中では社会問題となっているいじめや、年功序列制による一方的な搾取が発生しがちです。

相手の欲求を断ることができず、ただ応え続けてしまうと、相手は自分に対して物事を『情報』に基づいて適切に判断をしなくなり、依存関係を結んだ後に継続して一方的な欲求をぶつけてくる可能性が高くなります。

なぜなら許されることで、「それが社会的規範に沿ったものかどうかの確認」などの面倒な手続きを回避できるからです。許容されてしまえば「それが社会的に許容されるかどうか」の吟味をしなくなってしまうのです。

なので、そうならないために私達一人ひとりが、『その人間の行動が社会に受け入れられない行動を起こした場合の抑止のフィルタ(以下、抑止フィルタ)』としての役割をする必要があるのです。

日常生活や業務において、「手伝ってもらう」という形で他者の手を一時的に借りることはあるかと思います。ただしそれは、一方的な権利の略奪ではなく、様々な情報に基づき、健全な協力関係で物事を進めていくことを意識すべきです。そうしないと関係が悪化し、今後協力してもらうことが難しくなるかもしれないからです。

さらに、他者に対して(奪うことや快楽を得る目的で)攻撃を仕掛けたり、酷い言動をしてしまう方も世の中にはいます。人の欲求というのは本当に色々なタイプがあるため、内容によっては他者に甚大な被害をもたらす可能性も秘めているのです。

しかし、主に「面倒だから」や「あえて乗っかるのが楽しいから」といった理由で、ついつい傍観者的立場の人たちがその抑止フィルタを外してしまうことがあります。皆様にも経験があるかと思いますが、人同士のやり取りにおいて「その言動はどう考えてもマズイだろう」ということも、いわゆる被害者の反応が面白かったりして周囲でそれを許容するような空気になったことはないでしょうか。

その人が困っていて助けてほしいだろうというシチュエーションにおいても、周囲の人たちに傍観者効果が働き、結局そのやり取りが許容されてしまう、ハラスメントの火種のような現象が起こります。

学校内でのいじめなども、いわば『意思決定権の奪取』の延長線上と考えられますが、特に注意すべき点なのは、明確な上下関係がある(例えば職場での上司と部下のような)関係の場合です。そういった関係上での『意思決定権の奪取』とはどういうことを指すのでしょうか。

まずは、与える「情報」や「権利」を制限し、それにより意思決定の範囲を狭小にした後、上司的な立場の人の言いなりになるようにします。そうすれば、先程の話のように面倒な手続きを回避し、自分の欲求を叶える手駒にできるのです。

その解決法は先程申し上げた『抑止フィルタの活用』なのですが、もし抑止フィルタにより上司的立場の人たちが抑止された場合、今後自分たちの部下に対してどういった対応をしていけば良いのでしょうか。

つまり、(会社員であれば)健全な関係性を保ちながら会社の利益に繋がるようにその関係を続けることが必要となります。言い換えると、どう教育をしていけば良いかということですが、特に政治的な動きが絡むとこれは非常に難しいのですが『お互いの意思決定を尊重する』ことが大切です。

そう考えると、教育とは、意思決定を突発的な感情からするのではなく、教育者や教育を受ける者が持つ知識をお互いに共有し合いながら、その経験や知識を活かして自ら意思決定をする訓練であると言い換えられそうです。ここからなんとなく想像できる方もいらっしゃると思いますが、教育者の立場にとってもこのサイクルは自身を教育する場となり得ます。


とまあ、こういった感じで世の中は非常に多くの『意思決定権の奪い合い』が発生し、それを解決するのは何度も申し上げている『抑止フィルタ』です。

しかし、私達一人ひとりにはそれぞれ違った欲求が常に生まれており、その欲求と今後一生付き合っていくことを考えると先が思いやられるような気もします。一体どうやって自身の欲求と付き合っていけば良いのでしょうか。


個人的見解となりますが、まず自分の中で「何かがしたい!」という欲求が生まれた場合、その行動を起こす前に一呼吸おき、『それが社会的に許容されるものなのか』、そして『その行動を起こした後にどういう結果となるか』を、想像力と自分が持つ情報から判断する習慣をつける、そしてそれを継承し、文化としていくことが、私達の住む社会を健全なものにしていくための第一歩なのだと思います。

そう考えると社会生活というのは途方もなく難しく、正解がないように思えます。しかし、人間というのは別の人間同士でも多くの人としての共通点があり、まずそれを把握すること、そして把握しきれない、相手の気持ちや例外などは尊重し、お互いの意思決定を大切にすることがスタートになるのだと私は考えます。


皆様もこの記事をお読みいただいたことを契機に、人の意思決定権についてほんの僅かで結構ですので、これから意識をしてみていただければと思います。



以上でこの記事は終わりです。お読みいただきありがとうございました。

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