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【自分史vol.5】会社で忙殺されつつも足掻いていた頃

今でこそ、クズでビッチと豪語してますが、わたくしとても優等生でしたが、進学校で劣等生になって、出会い系が心の拠り所になったものの、大学デビューしてモテ期だったが来たけれどめっちゃ苦しい就活をしたと言うのが前回までの話。今回は社会人デビュー編です。(それぞれ過去編のリンクをつけているので、気になる方はそちらもどうぞ♪)

私が社会人デビューを飾ったのは人材ベンチャー企業だった。当時はね、スタートアップではなくベンチャーという言葉が闊歩してた。渋谷の社長さんはブログを書いてブームを作り出していたし、のちに千円札を拾うなと言う社長さんの企業も同じ人材系で勢いがあった。そんな2007年。

確か当時200人の規模に50人の新入社員が同期として入社した。5人に1人が新人。若くて元気な会社だった。全員がひとまず営業部署に配属された。

電話をかけることを「架電(かでん)」という。この単語を知っている人は営業会社を通過した人だけなんじゃないかな?1日100とか200もの架電をしてアポを取る。紙に印刷されて同期が何度も電話したリストに電話をする。(当時の話なので、現在はきっともっとスマートにやっていると思う。)

繋がらないし、ガチャ切りされるし、秘書さんに怒られるし、社長さんに繋がっても怒られるし、なかなかにハードだった。電話をしていない時間も、新しいリストを作ったり、日経新聞を読んで知らない単語を調べたり、日経ビジネスを読んだり、四季報の数字を覚えたり、貸借対照表と損益計算書のテストが毎週あるので、その勉強をしたりとやることは山積み。

始発で出社して、終電で帰ってもやることが終わらなくて土日も会社で業務を遂行。当たり前に同期とも土日に会社で会うそんな日々。

結構この時期の記憶を失っている同期が多い。本当に忙殺されていた。50人もの新人を束ねる先輩も自然と効率を求めて、軍隊式教育になる。当時、鬼軍曹と呼ばれてた一つ上の先輩の口調がうつって、同期間でも「結論から言って」「数字はどうなってるの」とギスギスした会話ばかりなされてた。みんなライバルだった。

どんどん初成約をする同期が恨めしかったし、素直に喜べなかった。そんな自分も嫌だった。結局わたしは営業で一本も成果を出せずに異動となる。

その後も、モバイルサイトの制作や、営業事務、経営者へのインタビュー動画制作、自社の採用のための動画制作、社史編纂、労務や総務での諸々書類の対応など異動しまくりのOL人生となる。やったことのない仕事でも勉強しまくって浅く広く多くの知識をつけたのもきっとこの時期。(器用貧乏に拍車がかかるぜ。)

その中で自分から積極的に参加した仕事が2つあった。1つは社内報の作成。もう1つは、3ヶ月に一度の成績優秀者のための表彰会の運営。後者は以前、noteに記載したので、そちらを見てもらうとして、社内報について。

週報で、A4サイズの裏表で構成された社内報の編集長を数年やらせてもらった。表紙に取り上げられることは一種のステータスだったし、撮影もインタビューも最初は全部対応していた。裏面は社員の面白い一面が見えたり、新しい部署やメンバーの紹介など、拡大して顔も名前もわからなくなりつつある会社の「共通語」として機能して欲しいなと思っていた。

月曜の朝に、みんなが社内報を読んでくれる光景がとても嬉しかった。1人でも多くの素敵なメンバーを紹介したかった。仕事は辛かったけれど、そこで働く人たちがわたしは好きだった。面白そうな人が中途でも入ってくると、積極的にランチに誘ったりと社内交流は活発に行なっていた。服装も髪型も好き放題して、(一度金メッシュしていって怒られたな笑)一風変わった社員だったと思う。

社内報のチームは、今ではそのノウハウを生かして他社の社内報も作る事業部になっているらしい。毎週の締め切りは辛かったけれど、何か一つでもたすきを繋げられたなら良かったなと思う。

結局、わたしは8年弱の勤務を経て退職した。朝起きたり、出社すると腹痛や蕁麻疹が出るようになってしまったからだった。今だからわかるし、自分でも認められるけれど、わたしはあんまり企業組織に向いていない。そして働き方も合っていなかった。そこから、ニート、フリーター、婚約破棄(!)を経て現在に至るわけだが、来週は自分史の最終回として、退職後の話を書きたいと思う。次回もどうかお付き合いくださいませ。


OL時代に関連するnote

今回も週1note参加してます!担当は水曜日!!来週もまた読んでね♪

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