マウンティングされたら、自分に問うべきひとこと
マウンティングされたとき、まずすることは相手を悪役に仕立てあげることだ。イラっとしながら、誰かに話す悪口の用意をしてしまう。
だけど年齢的に大人になったこともあり、最近ではマウンティングされたと思ったら、必ずこの質問を自分に投げかけている。
私は欲しい「何」を手に入れていないのか?
「何」はモノだけでなく、「なりたい自分」だったり、「こうなって欲しいというストーリー」だったりと広範囲。そうすることで、毎度良い気づきになって終わることが多い。
なぜ、そう考えるようになったかというと、きっかけは東南アジアの旅。ある日、バックパッカーが集まる宿で「誰が最も危険な貧乏旅をしたか?」という白熱した議論を繰り広げていた。
一見、旅人たちのエネルギッシュな情報交換に見えるが、中身はただのマウンティング合戦。「いかに自分の旅人レベルが高いか?」を証明するための武勇伝が次から次へと……。
本気でどうでもいいと思った。
ただ一方で無関心で平和な傍観者である自分と、我こそはと熱を注ぐ旅人とのコントラストに不思議な気持ちになった。で、気づいたのが、マウンティングは“自分の欲しいものにしか反応しない”ということだった。
私は貧乏な旅も、危険な旅も全くしたくない。だけど目の前の人たちはそうじゃない。ただ、これが「女性ひとりのステキなおしゃれ旅」だったらどうだろうか。「フリーランスの編集者として、どんないい仕事をしてきたか」だったらどうだろうか。きっと心がざわついたに違いない。
マウンティングは感じの悪い存在だけれど、あえて平和な捉え方をすれば、そのテーマにおける情熱の裏返し。返し方によっては、情熱と同じ大きさの苛立ちが返ってくる。そんなカラクリなのかもしれない。
だから、マウンティングにイラっとしたらそれはチャンス。自分の欲しい「何か」と向き合う機会にしている。
何にイラついたのか? 何を競おうとしたのか?
何を脅かされると思ったのか?
それは嫉妬で気づく恋心みたいに、認めるのが恥ずかしかったり、それでも気持ちにふたをしたかったりとやっかいなときも多々ある。
それにハッピーエンドかどうかはまた別の話。だけど、気持ちを自覚することで物語が展開するのは確か。そして悪役にスポットライトをあてる工数も減る気がしている。
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