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10月の短歌

 今日は月に一度の短歌の会だった。(2023.10.8)
 月初めの週は、読書会、句会と、文学的な会が二つ続く。だんだんこのペースに慣れて、気持ち良くなってきたのは、過ごしやすい気候のせいだろう。市立図書館で本を借りることにしたのも楽しみの一つになった。
 結局、今日もギリセーフで教室に滑り込む。懲りない私w。
 今日も、自分の選んだ3句と、皆さんの得票の多かった句を紹介してみる。

雲つかむ形にクレーン車動きいて鉄骨伸びゆく異境めく町

 私も選んだ一句。この句の読んだ風景がスクリーンに鮮やかに浮かぶ。
 機械的で武骨なクレーンの形を「雲つかむ形」と詠んだところが素敵だ。いつもは見慣れた自分の住む町が、どこか異境のように見えるという結句もいい。初めは異郷となっていたが、先生が、異境の方が、不思議な世界に滑り込んだ感じがするのでは?とのこと。 

吾(あ)を映す水たまりにも宇宙あり明日には消ゆる果敢(はか)なき水辺

 半径10メートル以内の水たまりに見た宇宙。明日には消えてしまう水辺。
水たまりと宇宙の間の大きさのギャップ。はかないということば。
 儚いという漢字だけかと思ったら果敢(かかん)で、果敢ないとも書くのですね!意味が真逆のような気がする漢字が面白かった。先生の句です。

草むしる腕に蛙が飛び乗りて兄の使いか初七日の朝

 選んだ方が、自分も誰かを亡くした時に、蝶とか虫とかに、その姿を重ねていた同じ体験があると言う。草むしりいつもしているけど、蛙が飛び乗ってきたことは一度もないですよ、とえりりん先生。蛙について調べたら、蛙の人形は古代からお墓に一緒に埋められることが多かったとのこと。きっと死者が生き返る(かえる)という願いがこもっているのだろう。

美しき黄金の稲穂俯きて静かにうねり刈られるを待つ

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という一句が浮かぶ、美しい実りの風景。
しっかり美味しいお米を実らせているのに、謙虚で威張るでもなく、しかし、静かに誇らしく風になびいている姿が浮かぶ。
 選んだ方は新米の美味しさまで想像している食いしん坊さんだった笑。

目をそらし塵の小山に背をむけて呪文のように言い訳をする

 一同、大共感の歌である。私は短絡的に、掃除あるあるだなと思っていたが、句を鑑賞した方が、「この句は、見たくないものを見ないふりをしているという自分のココロの中にも思い当たることがある普遍的な句」と評したのに驚いた。そうか、現実の風景にも心の中にも、そういう、塵のこやまはある。呪文という表現が、独りでつぶやく作者の実際の声、心の中の隠し事が漏れているようで面白い。

秋の夜の鬼女を演ずる舞に酔い菊酒に酔う幽玄に入る

 元の句は「菊酒と鬼女を演ずる若者の舞に酔うたり幽玄に入る」であった。始まりの「菊酒と」で本当は切れるのあろうが、菊酒と鬼女がごっちゃになっているところが惜しいと先生。ここはいっそ、酔うという言葉を繰り返して、その2つを引き離した方がいいのでは?と先生。
 今月の学びは、「言葉を繰り返す」というやり方が有効なことを学んだ。この句は、私が一人選んでいたのだが、若者は男性で、男が女を演じる怪しい舞を感じるのと、菊酒という季節のお酒に酔いながら舞を楽しむと言う風雅な時間が感じられるのが素敵だなと憧れた。
 幽玄とあるので、能であろうか。以前、能を子供時代から嗜むという同僚から、彼女が出演したDVDを頂いたことがある。感想を述べようとして見てみても、いつも途中で気を失って寝てしまうので、反省していたが、ある時、能を観ることをエッセイにしている方の話で、能は、ちょっと眠たくなりながら夢か現かという状態で見るのが正しいのだと言うのを読んだ。
 じゃあ、私の状態、正しかったの?笑  

雨上がりぽつんとひとつ忘れ傘老いたる吾と重なりて見ゆ

 塵のこやまの句と並んで、票を集めていた句である。
 この句を詠んだのは、あの人だろうと思っていたら、当たっていた。だんだん、句の特色がわかってきたかもしれない。
 私もこの句を選んでいた。言葉の使い方、自然に言葉が紡がれている感じ、素直に自分も作者の気持ちに共感した。
 面白かったのは、いつも作者の気持ちを推量しあって、鑑賞しているだけなのだが、作者にどういう情景なのか聞いた先生。
 作者は雨の日にパソコン教室に行って勉強してきたときに、帰りは晴れて、持ってきた傘は必要が無くなっていた。用なしになった傘に、退職した父親としての姿を重ねて詠んだ。仕事に就いていた時は、家族のために頑張って稼いでいたんだぞ、俺のことを忘れたのか?という気持ちを込めて詠んだという。みんなで和やかな笑いが起きた。

忘れずに片づけノート記してもノートを探すうろうろさがす

 この歌は、会の冒頭に、新聞の歌壇に佳作となった会員の句を先生が紹介していたもの。探す、さがすと、2度繰り返しているが、それが一層、うろうろとしている作者の情景を引き立てる。こういう繰り返しは、短歌に有効なのですよというお話であった。塵のこやまと作者は同じで、彼女の詠もうとしていることが一貫しているようだ。
 

9月のお彼岸に墓参りをした時に故郷の弘南電鉄が金魚ねぶた電車になっていた。
普段、人工的な照明の車内が、金魚ねぶたの灯りだけで、幻想的な世界に感じた。

 「赤々と金魚灯れる幻燈列車 闇に好かれて家に着くまじ」

 今回誰にも選ばれず、ちょっと寂しいw。今まで誰かが選んでくれていたことがたまたまラッキーだったのである。
 この句の状況や風景が、皆には伝わらなかったようだ。
 私はこの光景の非日常の美しさに驚き、姉の家に帰るためにちゃんと駅に降りたのだけれども、あのまま、幻燈列車に乗って行って不思議な世界に行ってしまった半分のココロがあるなあと感じた。それを詠みたかったのだ。
 先生からは前半をちゃんと、「五・七・五」に収めると言うこと、後半の、「家に着くまじ」という具体的な表現はいらず、もっと幻想的な結句を考えてみては?と言うアドバイスがあった。先生は、今日の学びである反復とかどうでしょうか。「闇に好かれて闇に光る」とか、と。
 私の句を読んで鑑賞してくださった方が、「闇にとけゆく…」とつぶやいて、それいいですね!と採用させてもらった。 共作になるかな笑?

赤々と金魚灯れる幻燈列車 闇に好かれて闇にとけゆく

 「家に着くまじ」という「家には着かないだろう」という句がぱっと浮かんで、これを採用したいと思ったのだが、気に入った言葉に執着していると、却って、短歌のやわらかさとか美しさが表れないのかもしれない。

 日を置いて、練ったり、思い切って捨ててみたりと、デザインの心を持って、仕上げてみようと思う。

 今まで、9月の短歌、10月の短歌と紹介してきたが、よくよく考えてみると、1か月間、歌を考えて、次の歌会があるから、季節から行くと、10月の短歌は、正確には、先月の、9月の短歌なのである。

 この表記ってどうなのかな?と思い始めた今回である。
 季節のずれが生じているが、短歌を詠むということは、どこかひとつ前の過ぎ去った情景を読んでいる気もしないでもない。

 まあ、いっか( ´艸`)。
 今年はこのまま続けてみよう!

 今回も図書館で、7冊、短歌と目に見えない世界の本を借りてきた。
 それぞれの探究が進むのではと楽しみだ。

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