見出し画像

なぜタクシーを信じるのか?

「上板橋の駅前まで」
 俺は乗り込んですぐに運転手に伝えると、すぐ腕組みをして黙り込んだ。

 今は午前一時半、悲しいことに飲み会終わりでも何でもなく、ただただ残業の結果、この時間である。疲れ果てているときにタクシーの運ちゃんと会話できるほど、俺は人間ができていない。
 なかなか経路を訊いてこないなと思って俺が顔を上げると、バックミラー越しに彼と目があった。眼鏡をかけた、初老の男のようだった。

「シートベルト着用のご協力お願いいたします。ご希望の経路はおありですか」

 ようやく彼がそう言ったので、特にないのでナビでも何でも使ってください、とだけ答え、俺は再び俯く。
 仕事の量が悲惨なことになっていた。何も考えたくない。なぜタクシー運転手はいちいち、道順などを訊いてくるのだろう。どこをどう走ろうと興味はない。たどり着けばどうだっていいのだ。

 タクシーは比較的新しく小綺麗で、ありがちな車内の悪臭はなかった。運転手の顔は相変わらずよく見えなかったが、白髪まじりの後ろ髪は綺麗に整えられていて、清潔な印象だった。
 俺はそれだけ確認すると、たちまち疲れで眠り込んでしまった。

 次に起きた時、車は見覚えのない道を走っていた。周囲にはどこの街にでもあるようなチェーン店とコンビニが並んでいて、どこなのかわからない。
 腕時計を見ると、すでに一時間半ほどが経過している。とっくに家の最寄駅に着いていないとおかしい時間だ。

「ちょっと。なんで着いてないんです。迷ったんですか」

 俺が尋ねても、運転手は答えようとしなかった。

「ちょっと」

 声を荒げても、対応は変わらない。窓の外に見えるのは、人気のない薄暗い街だった。走行音のせいで聞き取れない、AMラジオの音声が運転席から微かに聞こえる。落語が流れているようだった。

「お客さん、降りたいですか?」

「は?」

 落ち着いた声で運転手が言い、俺は聞き返す。運転手はどこか、愉快そうな響きを含んで続ける。

「いや、時々思うんですよ。たとえば床屋とかね、どうしてみんなあんなにくつろいでいるんだろう、と。赤の他人に刃物突き付けられていて、心穏やかにいられるっていうのはやっぱりおかしいですよ。あるいは焼肉屋なんかだってそうですよ。目の前で高熱の鉄板があってね、店員に突然ぐいっと顔をそこへ押しつけられたら、たまったもんじゃない」

「何言ってんだあんた」

「それでね、タクシーなんてものを運転していても、思うわけです。なんでお客さん方はこんなに安心しきってるんだろうって」

 再び、バックミラー越しに運転手と目が合う。感情の篭っていない目をしていた。

「こんな逃げられない鉄の個室の中で、赤の他人にハンドル握らせて、なんで落ち着いてられるんだろうって不思議でね。そんなこと考えたことありませんか」

 俺は沈黙した。
 たまにタクシーの選択にしくじることはあって、何度行き先を伝えても理解できない運転手、体臭が異常にきつい運転手などに当たったことはあったが、どうやら今日が最悪の日だったらしい。

「ここはどこです」

「わかりませんか?」

 俺が訊いても、運転手は素知らぬ様子で応じる。
 幹線道路沿いではない、どこかの街だが見覚えはない。特徴のない、つまらない街だった。

「降ろしてくれ」

 俺は言った。だが、運転手は何も答えず、わずかにアクセルを踏み込んで速度を上げた。それが答えのようだった。

「降ろしてくれ! 警察を呼ぶぞ」

 声を荒げても彼は全くリアクションしない。剛を煮やして俺は、胸ポケットに手を突っ込んだ。しかし、何もない。慌ててカバンやズボンのポケットを確認したが、携帯電話はどこにもなかった。

「携帯ですか? 捨てておきました」

 運転手は相変わらず少し愉快そうだった。

「お客さん。繰り返すようですけど、赤の他人の車の中で無防備に寝入っちゃ駄目ですよ」

「何考えてんだあんた!」

 俺は再び怒鳴った。
 そういえば、さっきから信号でも一向に止まらない。どうやら、速度を微妙に調整して、引っかからないよう交差点に差し掛かるタイミングをずらしたり、そもそも信号がない道を選んで走り続けているようだった。
 運転手としての知識や経験、技量はある様子らしい。おかげでドアを開けて飛び降りるわけにもいかない。

「何が目的だ!」

「さっきも言ったでしょう。なんで信用してるんだろうな、と思ったからですよ。前々から気になっていて、今日ついに思い立って、行動に出ただけです。意味なんかないですよ」

「サイコパスかあんた」

 俺は感情的になってそう言う。映画やドラマではこの手の異常者を見たことはあるが、現実に接するのは初めてだった。

 その時、走っていた狭い道を前方から自転車が走ってきた。普通であれば車の側が速度を下げてすれ違うところだったが、タクシーは全く減速しなかったため慌てた自転車は、タクシーのサイドミラーに衝突し、脇のブロック塀にぶつかってしまった。通り過ぎた後で、背後から倒れる金属音が響いてくる。

 俺はその光景を目の当たりにして、むしろ何も言えなくなってしまった。洒落や冗談でやっているわけではない。この運転手は本気、いや、真剣なのだ。

 前に向き直り、方策を考え始める。だが、考えても考えても何も浮かばない。走り続けているタクシーから脱出する方法なんか、ない。外部と通信する手段ももうないし、仮に連絡を取れたところで、こんな深夜に、どこともしれぬ場所を走っているタクシーを見つけて助けてもらう方法なんてない。

 となると。
 俺は身を乗り出して、運転手に話しかける。

「あのさ、運転手さん。ストレスがたまってるのか、嫌なことがあったのか知らないが、こんなことはやめた方がいい。今やめてくれたら、警察にもおたくのタクシー会社にも通報したりしないから。一度降りて、ゆっくり休もう。料金だってメーター通り払っていいからさ」

「はは。懐柔したくなる気持ちはわかりますがね。そんな薄っぺらな言葉で動くぐらいだったら初めからこんなことしていませんよ」

 あくまで運転手は穏やかな、いかにも運転手らしい口調だった。まるでありきたりな、他愛もない雑談をしている時のように。
 突然、ウィンカーも出さずに車は右に曲がった。俺は前部座席に思い切り頭を打ち付け、呻き声を上げて床に倒れ込んだ。

「お前何、ふざけんなよ!」

「お客さん、何か忘れていることってありませんか」

「はあ?」

 急に言われて、俺は言葉に詰まる。どういう意味だ? 脅しの常套句だろうか。相手から金を引き出そうとしている時に言うアレか。
 そうか、これはそういう新手の強盗なのか、と俺は考えたところで、彼は言葉を付け加えた。

「あ、一応ですが、『人にお願い事するときに大事なもの忘れてるぞ』とかいう言い回しじゃないですから。私そういう遠回しな喋り方しないんですよ。文字通りの意味です。何か、大切なことを忘れたりしてませんか、という話です。一般論。ちょっとね、私、お客さんと話がしたくって」

「何を今更」

「いや、車乗られて早々に眠られると、こっちは手持ち無沙汰で参るんですよ。勝手言って申し訳ないけど。特にこの時間走ってる人間って、大体眠気と戦ってますから。お客さんと喋ることで目を覚ましたりしてるんです。どうですかね。何か忘れてないですか」

 俺はつくづくうんざりしていた。こんな狂人とは口を利きたくない。だが、受け答えしなかったら何をされるかわからない。それに、少し考えもあった。
 座席に腰を下ろすと、俺は深く息をついた。

「……どうだろう。忘れてることなんていくらでもあるよ。三十代も後半だから」

「そうですね。私ももう六十前ですから。忘れたことの方が多くなってきてる。忘れたいことも多いですよ。忘れるっていうのは便利なもんで、若い頃は良くないことだと思い込んでいたんですが、ずいぶん生きやすくしてくれる仕組みなんですよね。いやね、タクシーの運転手っていうのはいやなもんで、お客さんが乗ってる間は運転に集中すりゃいいですが、どなたもいらっしゃらない時間も長いもんだから、その時間が退屈というか、憂鬱でね。余計なことばっかり考えちゃうんですよ」

 俺は運転手の話を聞き流していた。そもそもタクシー運転手の話というものはどれもこれも中身もなく好きではないのだが、その中でもこいつは特に外れだった。明らかに話し下手だ。だらだらしていて、話に縦筋がない。
 美容院など行っても思うが、なぜ素人の話を延々聞かされなければならないのか。拷問みたいなものだ。観光地で乗るとき以外は、とにかく黙っていて欲しいものだと思う。

「私、娘がいましてね。お客さんみたいに夜中まで働いてばかりだったんですがね、一向に休もうとしないんですよ。心配でねえ……で、とうとうしまいに、脳溢血を二十代で起こして倒れて、死んでしまったんですよ。お客さんも気をつけてくださいね」

「はあ、そりゃ……お気の毒に」

「まあ、何が言いたいのかと言いますとね、タクシーの中で一人でいるとそういう気の滅入る思い出ばかりが頭をよぎるんですが、それでも時間が経つにつれて、少しずつ少しずつ薄れてくるんですよ。壁に描かれた絵が次第にい陽を浴びたり雨を被ったりして、薄れ掠れて消えるのと同じようにね。辛さもずいぶんましになってきます。忘れるっていうのは、大切なものなんですよ。わかりますか」

 気の毒だが、話が要領を得ないせいでどう相槌を打ったものかわからなかった。それに、俺自身が他のことをずっと考えていたせいでもあった。
 車は先ほどから、同じような外見の街を走り続けている。どこなのかはいまだにわからない。ずっとこのまま走行していれば、いずれ燃料が尽きて止まるだろう。

 だが、確かタクシーは液化天然ガスとかいうもので走っているはずだ。ガソリンと違ってどれぐらいで尽きるのか、想像がつかない。少なくとも、この車は明け方までの燃料は積んでいるはずだから、始発を過ぎてもこのドライブは終わらないに違いない。下手をすれば、もっとずっと長く。
 そんなもの、待っていられない。

 俺は運転手の背後で、わずかに身構えた。

「たとえばですよ」

 すると唐突に、運転手は話し始める。

「たとえばですが、今、お客さんが私を襲って、まあ首を締めるなりなんなりして車を止めるとします。間違いなくその辺の電柱か塀かに突っ込むだろうと思いますが。さすがにお互い、死にはしないと思います……で、そこに小さいカメラがついているのわかりますか。これ、車内向けのドライブレコーダーです」

 運転手は、わずかに顎をしゃくって示した。確かにそこには、小さなカメラらしいものが設置されていた。

「うちのタクシーの車載カメラって、音声は録ってないんですよ。車内で重要なビジネスのお話されるお客様もいらっしゃるんで。つまりね……わかりますかね」

 考えた末、俺は歯噛みした。遠回しな嫌らしい言い方だが、言いたいことは十分わかった。
 事故後、やってきた警察がこの映像記録を見ると、残っているのは苛立ちを募らせた末、突然暴れて、運転手の首を絞めだす俺の姿だけ、ということになる。俺がどれだけ正直に話しても、全ての裁判官が運転手の言葉を信じるだろう。

「諦めた方がよろしいと思いますよ」

 俺は多分人生で一番深いため息をついた。

 車は走り続けている。誰かがすれ違ったら無理やりドアを開けて叫び声を上げて、助けを求めてやろうかと思っている。けれど、時間のせいもあってか誰も人が見当たらない。
 叫び続けたら誰かが警察を呼んでくれるだろうか。いや。だとしても俺の言葉より、運転手の言い分を世間は信じるだろう。過労の末、発狂したサラリーマン。冗談じゃない。そんなものに分類されてたまるか。
 とにかく、燃料が尽きるまでこの男とのドライブに付き合わざるを得ないようだ。俺は額を擦って、なんとか落ち着こうとした。

 自分の意にそぐわない状況というのが、この年齢になってくるとなんとも不愉快に感じられる。仕事でも部下はきちんと言うことを聞き、幸いにして成果を盾にして上を黙らせることもできるようになってきた。私生活でもそろそろ、適当な結婚相手を見つけることを考え始めていた。要は人生、じわじわと次の段階に入ろうとしていた矢先だったのだ。
 それなのに、こんなわけのわからないハプニングに巻き込まれる。

 未だに顔もまともに見ていないこの運転手が憎い。理不尽な混乱に巻き込んできたこの男が、我慢ならないほど腹が立つ。名前を見てやろうとちらりと運転席周りを覗いてみたが、俺の寝ている隙に片付けたのか、本来ならあるはずのネームプレートも見当たらなかった。妙なところは気が行き届いている。もちろん、ナビの画面も消えていた。

 ふと気づくと、市街地を抜けて車は大きめの自動車道を走っていた。左右には防音用の高いパネルが立っていて、オレンジ色の街灯が定期的に流れていく。空は曇っているからか月明かりもろくに見えず、ここがどこなのかは全くわからない。

「おい、どこまで行くつもりだ!」

「どこだっていいじゃないですか、今更」

 運転手は小さく肩を揺らした。

「どうします? 対向車線のトラックに突っ込んでみますか」

「ふざけるな!」

「そんなありきたりな台詞。私は初めっからふざけてるじゃないですか。遊びでこんなことやってね」

「自殺願望でもあるのか。だったら勝手に死ね。俺を巻き込むな!」

「感情は抑えられるようになった方がいいですよ。私もこの仕事続けて、面に気持ちを一切出さずに喋れるようになりましたから。感情なんてものは、使わないに越したことないです。揺さぶられたって損しかないですよ。切り捨てたいくらいです。私にとってはね。三本目の脚みたいなもんですよ」

「は?」

「いらないでしょ? 三本目の脚。歩くのに邪魔じゃないですか。運転もしづらそう。もし生えてたら切り捨てますよ。同じことです」

 ますます何を言っているのかわからなくなってきた。不安定になってきているのかもしれない。この調子だと、燃料が尽きる前に危険な行動に出るかもしれない。
 こうなってくると、少しでも速度が落ちた時に飛び降りても……と考えたが、自動車道に入って車は以前より速度を上げていた。これでは怪我では済まない。もう八方塞がりだった。
 俺が何か悪いことをしたか?

 そのまま、数時間俺たちは走り続けた。途中から運転手は何も喋らなくなり、俺の方も当然何も言わなかった。長すぎる緊張のせいで脳は猛烈に睡眠を欲していたが、こんな状況で眠れるはずもない。明け方になるにつれ、徐々に気を失いそうになっては、慌てて立て直すということを俺は繰り返していた。
 車の外からは、恐ろしく強い早朝の日の光が差し込んでくる。目が潰れそうになって視線を逸らす。自分の顔がぎっとりと皮脂にまといつかれているのを感じる。

 早く帰りたかった。この馬鹿げた状況に終止符を打って、さっさと眠りたかった。けれどそうはいかなかった。もしかしたら次の瞬間、運転手はハンドルを切って道から飛び出し、車ごと自死するかもしれない。それぐらいなら起きていて、万一の時に備えなければならない。
 ネクタイを緩め、苦しい息を整えると俺は、窓の外を見た。いつの間にか車は郊外の、草木ばかりの生えた田舎道を直走っていた。どこだ、ここは。痺れるような感覚があって、頭が全く働かなかった。

「何が言いたいかと言いますとね」

 ずいぶん遠くの方から声が聞こえる。

「誰を信用するかってことなんですよ」

 運転手の声は、聞こえてはいても脳に入ってこなかった。
 単発的に彼の言葉は俺の耳を通り過ぎていった。

「かつて、あなたを信用しすぎて死んだ人間がいた」

「私にとって、あなたの顔は忘れられない顔だった」

「けれど、あなたは何も覚えていなかった」

「会社から命じられて、形ばかりの謝罪に訪れた街のことも覚えていなかった。あなたは全てを忘れていた」

 何を言っている? 懸命に理解しようとするが、俺は吐き気を催していた。俺は何をした? 何がいけなかった?

「何がいけなかったかって、簡単なお話ですよ。あなたは信じるべき相手を間違えたんです。そして記憶しておかなければならないものを忘れた。大切なものを忘れ、何も考えず、身を赤の他人に委ねてただだらだらと日々を過ごしていた。仕事を熱心にしてるかどうかなんてどうだっていい。あなたの生き方は怠惰で愚かですよ。その罪は償わなければならない。私はね、あなたが許せないんですよ。大谷さん」

 運転手はそう言って、ぐるりと身体をひねり運転席から俺の顔を見据えた。彼と正面から目があった。
 彼は感情のない目をしていた。
 俺はそのまま、眠りに沈んでいった。

    *     *

 目を覚ます。
 俺はタクシーの車内にいた。運転席には誰もいない。

 俺はシートベルトを外し、ゆっくりと車を降りた。そこは、砂浜だった。
 どこなのかもわからない、何もない海辺の砂浜に、タクシーは乗り捨てられていた。俺は独りぼっちだった。
 日差しは恐ろしいほど強く、海風が顔を殴りつけてくる。潮の匂いで、俺は顔をしかめた。海鳥の声が響いている。
 運転席からも伸びているはずの足跡は、風のせいか波のせいか、すでに消えていた。波の音は激しかった。
 周囲を見渡しても、誰もいない。俺は、独りぼっちだった。

 俺はその場にうずくまると、頭を押さえ、そのままただ、時間が過ぎるのを待っていた。
 もう家に帰りたいという気持ちは失せていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?