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喋るロバ

「また泣かされたのか」
 ロバのジュンペイは私に優しい声で言った。私が十歳の頃の話だ。

 誰に話しても信じてもらえない。信じてもらう気もないから酔った時しか話さないせいかもしれないが。でも確かに、私の実家で飼っていたロバのジュンペイは喋ったのだ。

 私が頷くと、ジュンペイはゆっくり大きく首を上下に振った。怒っているのか哀れんでいるのかはわからない。ただその優しい目で私のことを見ていた。私はジュンペイに、何をされたのかを懸命に話した。だが彼は、必ずしも私の味方とは限らなかった。

「そりゃあお前、お前が悪いよ」

 何のためらいもなくジュンペイに言われて、私は余計に泣きじゃくった。どうしてロバに怒られなければならないのだろう。けれど、ジュンペイはあくまで泰然と、草を食むばかりだった。

 私の実家は田舎らしく土地だけは広く持っており、そのほとんどを持て余して家庭菜園だの、父が趣味で建てた使い道のない小屋だのに使っていたのだが、その片隅にジュンペイはいた。
 私が物心ついたときには既に当然のように暮らしていたので、いったいどういう経緯でなぜ、うちにロバがやってきたのか私は知らなかった。そしてあいにく、親にそれを訊くほどの分別は私にはなかった。

 ジュンペイは私の覚えている限り、いつも私に対してだけ喋ってくれた。声は静かで低く、穏やかで、あたかも常識を弁えた善良な大人といった風だ。振る舞いは完全に普通のロバと変わらない(私自身ジュンペイ以外のロバと触れ合ったことがないけれど)。

 父や母に、ジュンペイのことを話しても、誰も信じてはくれなかったーーというより、私が面白おかしく嘘をついているのだと思ったのだろう。十歳ぐらいの頃はまだ、笑って聞いているだけだった。
 あの頃学校にも友達がおらず、毎日教室が嫌でしかたなかった。だからジュンペイは私にとって唯一の救いだったのに、両親にとっては笑いの種の一つでしかなかった。それもまた、嫌だった。

 ジュンペイの寂しげな目は、長じた今も私の胸に居座り続けている。何か辛いこと、悲しいこと、忘れたいことが起こるたびに、彼のまなこが視界に浮かび上がり、そして泣き出してしまいそうになるのだ。

 十歳の頃の私は一度、ジュンペイを勝手に連れ出して遠くまで出掛けたことがある。理不尽な理由で母に叱られ(今思うとあれはきっと父や祖父と揉めていた八つ当たりだったのだろう)、耐え難くて家出したのだ。そして、信用できるジュンペイと共に行くことにした。

「付き合うよ」

 ジュンペイは杭から無理やり綱を外そうとする私にも不平ひとつ言わず、そう答えた。私は綱をしっかり手に巻きつけ、彼を引き連れて出奔した。

 当時、私が住んでいたのはM郡の田舎の村だった。周辺に住んでいる人は皆知り合いで、だからうっかり見つかってしまうとあっという間に親に連絡が行ってしまう。絶対に母のもとへ帰りたくなかった私は、できる限り人目につかない道を選んだ。薄暗いジメジメしたトンネルを抜け、産業廃棄物が道端に放り出されている草はらを歩き、小さな虫がまといついてくるのを払いながら、私は歩き続けた。
「どこへ行くつもりだ?」

 ジュンペイに聞かれて、私は答えなかった。するとジュンペイは、
「満足いくまで歩いてみるといいさ」
 とだけ言った。
 やがて、夜になった。気づくと私たちは、知らない集落の中にいた。トタン葺きの家や、曇りガラスの割れた家が並んでいる。夕食の匂いが漏れ出しているが、不思議と私は、お腹が空いてはいなかった。

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