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わすれないの意味を

私がいま生きるこの地球は、いくつもの傷を負っている。

そう強く思わせたひとつの体験が、東日本大震災だった。
あの日から10年。

あの頃わたしは小学3年生で、たまたま短縮授業だったから家にいた。
母も弟も、そしていつもならまだ足場の危険な場所で仕事をしているはずの父も、たまたま家にいた。
不思議だと思うほど、いつもとは違う様子の昼下がり。

その非日常をますます、非日常にするかのように、地震がきた。
初めて体験するような縦揺れ。
ブラウン管のテレビを卒業して買ったばかりの液晶の薄型テレビがカタカタと音を立てて激しく揺れた。

止まらない揺れに、恐ろしいほど大きく鳴り響く警戒音。

家族4人、丸く、低く、身を寄せ合った。

あっという間に、日は沈み
暗闇がより一層、わたしの恐怖を増大させた。その日から停電が続き、真っ暗な夜に不安で泣いていた。
小さかった弟は、状況をいまいちわかっていないようで
蝋燭がついてはよろこび、
テーマパークで買った光るペンダントをつけては嬉しそうにしていた。

弟のその無邪気で純粋な笑顔だけが私と両親の張りつめた恐怖を、一時でも解いてくれた。

それから小学校を通して、被災地の同じ小学生に、寄付をおこなった。
一人一枚、手紙を書いたことをよく覚えている。
この一枚に込めた想いは、はたしてその町の誰かに届くのだろうか。
不安でありながらも、知らない感情が心の中をジンジンと強く打った。

どうか、届いてほしい。
どんなに小さな力であっても、少しでもいいから力になりたい。

それは時が経つにつれて、気になるようになった。


あの日から5年以上経ったとき、飛行機に乗って北海道へ行った。

ちょうど東北の空を飛んでいる頃、機内の窓から朝焼けをみていた。雲の切れ目からみえた東北の地は、何キロ上からでもわかる程、「あの日」を残したままだった。

もう5年以上時は進んでいるのに、その現実が嘘のように、東北の地のときは止まっていた。

テレビの向こうにみていた荒廃した世界。あの世界をどこか、よその世界のことだと、現実を信じることができていなかった。

加えて、復興という言葉の真意を疑った。もとに戻ること、それが復興というのなら、それはいつ果たされるのだろうか。私があの頃、手紙を送った相手は、元の生活を取り戻したのだろうか。いくら願っても、悲しいことに答えはきっと思い浮かんだ通りだろうと思う。あの日を一時の恐怖として覚えている限りで、あの後いつも通りの生活をあっという間に手に入れて、生きている自分が、どうしようもない存在に思えた。自分の幸せを悪だと思うのは間違っていると思うし、だからといってこのままで良いはずがない。なのに、足が動かない。苦しいと思うことも、申し訳ない。葛藤の末、最終的に残りるのはいつも不甲斐なさだった。

そのあとも定期的にメディアに映される映像や音が、“あの頃の記憶”となっていった。
メディアが映すものを、真正面からみられるようになったのは、最近のことだ。

被災地のあの日の悲惨さ、想像を絶する現実。
収集しきれない情報が一枚の画に収められている。
震える声を耳に取り込むのも苦しい。

そこに居なかった自分が、何を思っていいのだろうかとも思いつつ、残された記録を自分の記憶にいれていく必要があると感じた。
言葉にならない、整理すらつけることのできない、ただとてつもない重さを伴った感情がどっしりと私の中で息をした。

悲劇で終わらせないために、この経験を忘れてはならない。

よく聞く言葉だ。
忘れてはならない。
人は簡単に、言う。この重みはいかに。

3.11から10年ですと特番が組まれる。
この悲劇を忘れないためにと言って、あと何年、特番は組まれるのだろう。
戦後〇〇年。特番が組まれるのは、切りのいい数字のタイミングだけである。

そもそも、その何月何日という一日だけを、「忘れない日」にすれば良いというのか。
それ自体が、違うと思う。

忘れないの解釈の仕方はそれぞれあるが、その日一日だけ思い出すのでは、
あの悲劇を悲劇で終わらせない、未来に繋げていく、という約束を守ったということにならない。そう思う。

ある知人が、
あの悲劇を忘れないということは、
輝く海を見るたびに、この海によって苦しめられた人が沢山いるということを思い出すことだ。

と言った。

強い言葉だった。

津波の被害を現地で体験していない私はいくら被害の様子を画面越しに見ても、海を見ると綺麗で美しいとまず最初に感じてしまう。あの日を思い出す度に、胸が苦しくなるのに。

なんて、皮肉なことか。
多くのいのちを、こころを、奪ったのは、

目にするたびに美しいと感じてしまう海だ。

あの頃、新しい朝日が昇って来た時、
朝日は、まちが負った深い傷跡を明らかにし、そして傷を負わせた海を照らした。

自分も、「わすれない」を守っているわけではないと思う。

この深い傷を負った地球。いくら傷口を縫おうとも、その傷跡は消えずに、痛みを抱えたままの人が溢れるこの地球に、私も共に生きている。

3.11という日が近づく頃に、忘れない。と語り合うのではなく、

常に、心のどこかに置いておこう。

あの日見た空と同じような空が広がる日に
広大な海を前にしたときに
あの頃背負っていたランドセルをみかけるたびに

あの日の悲劇と、

その日から歯を食いしばってきた時間を

わすれない。

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