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親愛なるホグワーツ魔法魔術学校の皆様へ。

言葉は呪いにもなり、
呪い(まじない)にもなる。

日本語には言葉そのものに、もうすでにおまじないがかけられている。

どうぞ無事に帰ってきてください。
無事に帰ってきてくれてありがとう。
安全でいられますよう。

なにげなく発する日常的な言葉で
知らぬ間に、相手に優しいおまじないをかけている。
知らぬ間に、優しい愛で守られている。

日常で何度となく起こる会話も、例外でないのでは
ないか。

なにげない会話ほど、じんわりからだに染み込んで、
きづかないほどゆっくり染みたその言葉は、それが染み込んでいるときづいた時にはもう、小さくとも色濃い染みとなっている。

誰かの言葉が染み込むこともあれば、
誰かに向けたはずの言葉が自分に染み込むこともあり、
はたからみれば素敵な言葉の数々が、反対に錘になることもある。

“30代はすごく楽しいよ。だから楽しみにしていてね”
と言われたことがある。

ただ30代になるだけで、そんなふうになれるものだろうか。
相手が特別なのかもしれない、それに値する人生を歩んできたからなのもしれない。
けれど、わたしはそれに値するだろうか。

前向きな言葉が小さな錘となって迎えた30歳は
“このままでいいんだろうか
まだなにも成し遂げられていない”
そんないくつかの小さな不安とともにあった。

それから何度目かの誕生日をむかえようとしているいま、
別にこのままでも
なにも成し遂げていなくても
楽しくてしあわせであることにふときづく。
あのときの言葉のように。

そこには理由なんてひとつもないし、意味もなにもないのに。

もしかすると
あのときのお呪いに護られているのかもしれない。

これまで重くのしかかっていた言葉は、時がきて作動しはじめたのかもしれない。
魔法にかけられたように。

あの言葉があったからいまを楽しく生きていられるのか、
はたまた30代を迎えてからが、人生を生きるものへの本当の祝福のはじまりなのか。
このからだ一つでは、“あの言葉を知らない自分”を体験することはできないからいまはわからないけれど、

どちらにせよ、言葉を得た人間という存在は
誰もが魔法使いなのかもしれない。


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