亜也可.Kの宇宙

地球を遊ぶ人

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最近の記事

節目の自分へ寄せて

三角形がある 底を安定するように置くとそこには一番上にひとつの小さな点がある それが今の自分だ 何年、何十年、何百年、何万年、何億年 振り返ると後ろには自分までの道筋がある そんな過去から流れついた場所 三角形の一番上 後ろに見える道筋は遡るほどに広く、太くなっていく 今通っている血は、いったい何人の人生の凝縮だろう 祝福 地獄 なんと言うのかこの世は ただ、この凝縮された血が流れる全ての生き物が 不幸になれるはずはない 目の前に様々なことが起こっても

    • 怒ることを忘れたわたしたちへ

      不機嫌になることが多く、本氣で怒ることは減った。 なぜ人は怒るのだろうか。 怒るってのはきっと本氣だから。 真剣な証拠だ。 怒ることを忘れたわたしたちは、本氣になることも一緒に忘れてしまった。 真剣に感情を使い果たすことを恥じてしまうようになった。 けれど不機嫌なのは未熟だからだ。 こんなのおかしい、そう思ったとき、溢れてくる感情、 それは強い力だから、放つのも受けるのも體力がいる。 だから怒る行為に恐れ、あるいは意味がないと無氣力になったり、我慢したりする。

      • ヘミングウェイはこう言った、

        あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない、と。 生まれ変わりを繰り返す輪廻転生を信じる人はどれくらいいるだろうか。 ”同じ今日を何度も繰り返している“と言われれば、さすがに歳もとるし季節も変わっていくから無理があると思うかもしれないけれど、 始まりから終わりまでが誰にも用意されている“一生を繰り返す”、ということならなんとなく想像はできるかもしれない。 世の中で旅をすることがある人は多いと思う。 ”旅を…“まで打つと検索欄には 旅をして生きる 旅をしながら

        • 親愛なるホグワーツ魔法魔術学校の皆様へ。

          言葉は呪いにもなり、 呪い(まじない)にもなる。 日本語には言葉そのものに、もうすでにおまじないがかけられている。 どうぞ無事に帰ってきてください。 無事に帰ってきてくれてありがとう。 安全でいられますよう。 なにげなく発する日常的な言葉で 知らぬ間に、相手に優しいおまじないをかけている。 知らぬ間に、優しい愛で守られている。 日常で何度となく起こる会話も、例外でないのでは ないか。 なにげない会話ほど、じんわりからだに染み込んで、 きづかないほどゆっくり染みたその

        節目の自分へ寄せて

          これまで保険を何度かけてきただろう。

          “後悔してもいい だが最後には自分の選択を愛せ” 右足が先か、左足が先か。 こんな小さなことから、人生をかけるようなことまで、いつもなにかを選んでいる。 そんなに選んでばかりいれば後悔することもある。 そしていつか後悔という経験を繰り返すと “後悔したくない”という感情が芽生えることがあり、 後悔をすることは避けるべき最悪の事態であるかのように、できるかぎり後悔をしないような選択をする。 “後悔をしない人生を” 後悔しない人生とはなんだろうか。 なぜ後悔をしないよう

          これまで保険を何度かけてきただろう。

          奇跡は足元にあり、目は遠くを見ている

          わたしたちはなにか大きな幸せを探して生きている そんなきがする。 人生とはなにかを探すためにあると思っていたと言い換えてもいいかもしれない。 意識のない、はるか遠い心のどこかで、いつも。 大きな幸せがあると思っていた。 それをさがすことこそが人生だと思っていた。 生まれてきた意味、運命の相手、遠い国への旅行 大金を掴む成功者、著名人、注目の的、大きな奇跡、煌びやかな人脈、あらゆる制約から逃れた余裕のある自由人 大きな幸せはほんとうに存在するものなのだろうか。 あると

          奇跡は足元にあり、目は遠くを見ている

          掘り起こした宝物よりも、土を積み上げ続ける人々

          誰かをずっと探していた 誰かをずっと待っていた 誰かの言葉を、あたたかさを求めていた でも本当は、誰でもなく自分を見つけて欲しかったんだ。 わたしはわたしを見て欲しかった。 誰かにかけられたい言葉は、わたしがわたしにかけてあげてほしい言葉だった。 そうなのか、わたしはわたしを愛してほしかったんだ。 埋まらない空白がいつもある。 さみしさに似た、孤独に似た、悲しみに似たなにか。 それはきっと誰かが埋めてくれるものだと思い、 自分といつか生き別れた分身みたいな存在を探し続け、

          掘り起こした宝物よりも、土を積み上げ続ける人々

          今は過去であるいは未来だ

          自分ひとりの単体の経験や出会いが 誰かのためだったり、誰かの元に繋がっていくことがある。 全ての起こることは自分のためであり、誰かのためでもある。 うっすらと、でも人生が交差した人、そんな人たちのことをよく思う。 彼らは今どこにいるのだろう なにをして、なにを思い 誰を思い生きているのだろう 微塵も思い出さなかったこと、完全に忘れてしまっていたことが何かの拍子に蘇ることもある。 うっすら靄がかった記憶を引っ張り出すと、あまりの眩しさに目が眩むようで、フラッシュバックと

          今は過去であるいは未来だ

          完成とはつまり、永遠の未完

          言葉を書くことは時々拙い。 確かに、言葉についてなにも知らない。 おいしいものを食べれば“おいしいね” なにかが故障したときに“壊れたね” 確信をもって伝えられ、相手にも伝わっていると思えるのはせいぜいこのくらいだろう。 同じ音を持ちながら、じつは何通りもの微妙な違いを持つ言葉にいつも恐る恐る言葉を連ねる。 言葉とは各々の想像の中で成り立っている。 言葉ひとつとっても、それぞれの宇宙の中で独自の膨らみと繋がりを持つ。 同じ言語を話すお互いでも、まったくもって違うことを話

          完成とはつまり、永遠の未完

          全ての出会った人、これから出会う人

          どんな場所に行こうとも、その印象の最後に残るのは人であり、時に全ての色を塗り替えてしまう。 誰かがある空間に残した香りのように、微かなようでいつまでもそこに、ひっそりと強く存在し続けている。 印象的な人。 フランスの早朝、まだ暗い中わたしたちを迎えにきてくれたタクシーの運転手は、人生の喜びも、そして悲しみも数えきれないほどに経験してきたことを想像させる。 快適で綺麗な4WD、清潔な白いシャツときちんと締めたネクタイ、プレスの効いたスラックスとクラシックだけれど小洒落た装い、

          全ての出会った人、これから出会う人

          北国に生まれて

          一年という暦上でとても長い時間冬という季節を過ごすことは、じっと息をひそめて深呼吸を耐えているかのようだ。 春の間際は特に忍耐が必要となる。 南の方では色鮮やかな日差しの元で季節の花が咲いただのと言っているのに、北国では世界はまだ白く、そんな時は決まって、なにかじりじりとした焦りのようなものと息苦しさが迫ってきた。 人は産まれてくる前に、全てを自分で選んでくるのだと聞いたことがある。 “ならばなぜ自分はこの地を選んだのだろう” なかなか進まない雪解けを待つときや大雪の日は

          北国に生まれて

          はじまりは、こんなふうに

          旅が好きだ。 と、言ってしまうのが嫌だ。 なぜか なんでだろう でも大概こういうときって“旅行”が好きだ。じゃなくて、“旅が好きだ。と言うきがする。 かなり自論だけれど。 そしてどちらかを言わなければならないなら、“旅”が好きだ。この後者を選ぶだろう。 なぜか 別に旅なんて好きじゃない人もいるだろう。 わたしだってゲームは好きじゃないし、長距離マラソンも今のところ一生やらなくていいと思っている。 だけどそんな人も、この文章を読んでくれたら嬉しいなと思う。 それは“

          はじまりは、こんなふうに

          いま、どこにいる?

          多分年を重ねてある年齢を超えたときから、心と頭は未来か過去に生きることが長くなったきがする。 もしくは自分ではない他人について考えることが増え、ふときがつくと自分という軸がわからないようなきがして、今この瞬間を楽しむ方法をすっかり忘れてしまっていた。 原因がよくわからない心の空洞。 ”いまを生きられていない“そんな言葉が浮かび上がってきたけど、いまを生きるってなんなんだろう? 自分っていままでいったいどこにいたんだろうな。 ずっとここに居続けていながら。 ずっとここに居続

          いま、どこにいる?

          全て正しくて全てが間違っている

          結局全ては正しく全ては違っている。 ひとつの根源があるがそれはすぐには見えない。 そのひとつを目指すために様々な入り口がある。 だけどその入り口だけが世界ではなく、存在する入り口全てが世界であり、その世界はやがてひとつのところへと向かう。 今できることは受け入れて全ての可能性を探ること、否定せずにあらゆる側面を見ること。 ひとつに尖らずに円を描くように意識していくこと すなわち愛を持って生きること。 なにもかもをフラットに見続け、情熱は失わないこと。 神というのは全て、全ての

          全て正しくて全てが間違っている

          大いなる偏見の中にあるもの

          エネルギーの交換ってあるんかな? やっぱ、あるんだろうな。 書き終えた手紙を読み返すと、意外と面白かった。 って聞くと、自分の書くことが面白いと思ってる奴に思われるかな。 まぁ、もしかしたらそうなのかもしれない。 だって少しでも、ほんの少しでもそう思ってなかったらこんな風に自分の頭の中を書いたりするだろうか。 なんだかんだみんな自分のことが好きなんだ。 自分のことを書くと嬉しくなるし、自分の話をすると饒舌になるもんだよね。 自分が書いた手紙には自分のことばかりが書いてある

          大いなる偏見の中にあるもの

          本当にそれって信じられるの?

          ”信じたい“と人は言う だが本当に信じているだろうか? 信じること 信じ切られるだろうか? 信じる心が失われると失われるものがあり、わたしたちは物体ではない。 信じることとは目に見えない行為である。 その行為が行動になり目に見えるようになるかもしれないが実態はない。 また人は集団の中で意識を感じとる。思っているよりも感覚や五感、六感を感じ取って生きていて、そういった心で生きているわたしたちはつまるところ物体ではないのかもしれない。 そもそもわたしたちが言う信じるってなん

          本当にそれって信じられるの?