見出し画像

完成とはつまり、永遠の未完

言葉を書くことは時々拙い。

確かに、言葉についてなにも知らない。
おいしいものを食べれば“おいしいね”
なにかが故障したときに“壊れたね”
確信をもって伝えられ、相手にも伝わっていると思えるのはせいぜいこのくらいだろう。

同じ音を持ちながら、じつは何通りもの微妙な違いを持つ言葉にいつも恐る恐る言葉を連ねる。

言葉とは各々の想像の中で成り立っている。
言葉ひとつとっても、それぞれの宇宙の中で独自の膨らみと繋がりを持つ。
同じ言語を話すお互いでも、まったくもって違うことを話しているのかもしれない。

ごく微妙な違いがさらなる違いを生む、とても慎重なものだ。
と同時に、そんな微妙な違いなどほんとのところどうだっていいことなのかもしれない。
曖昧さという余白が隣り合わせなのは、限られたものに許された遊びのようでもある。

話しているようでなにひとつ話せていない。
書いているようで、そこにはなにも含まれていない。

そんな煩わしささえある言葉をなぜ綴るのだろう。

はっきりとした答えはまだない。

いや、
”だからこそ“
書かずにはいられない、のかもしれない。
横着者の言葉を使いながらも、その裏側を探さずにはいられない。
小さなこどもがぐずって癇癪を起こしているように。
それはもしかすると衝動という、感情なのかもしれない。

感情に突き動かされ、言葉を書く。
言葉など必要ないと思うその感情が、実体のないものが、それを形にしようとすると。

言葉は感覚に軽々と超えられる。
限りある言葉の世界よりも、感覚とはより広い世界だろう。

それを形にしたとき、

完成したと思った最後の瞬間、未完成であったときづかされる。
完成などどこにもなく、あるとすればそれぞれの世界にある。
あなたがこの文章を読んだとき、この物語は完成し、あなたの中でこの物語は未完成の作品となっていく。

そうやって形にならないようなことをどうにか文字におこしながら、わたしの中の未完成とあなたの世界が繋がり、それはひろがっていく。

完璧も完成も、正解もないこの世界でそれは
ひとつの美しい奇跡のようだな、と思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?