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私の人生の分岐点(統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話その22)

「え?なになに⁉️なんか揺れてる⁉️」

突発的な大きな揺れに、思わず声を発した。デイケアメンバーで輪になって椅子に座り、帰りの挨拶をする時間だった。私が精神科デイケアに通って、二年が経とうとしていた頃だった。2011年3月11日。東日本大震災が起きた。

「怖い!怖い!」

メンバーの年配女性で、不安感の強い方がいた。みんな地震の揺れが収まるのを、静かに待っていたが、その女性は一際怖がって叫んでいた。

「大丈夫ですよ、落ち着いて。」

女性スタッフが、年配女性の背中をさすった。女性は安心したのか、泣き出した。みんな不安そうな表情をしていたが、その女性以外は、騒がず、じっとしていた。私も家族諸々が心配だったが、その時はまだ、何とかなるだろう、という気持ちもあった。デイケアが終わり、テレビのニュースで津波の映像や、甚大な被害情報を見るまでは、よく状況を把握できていなかった。

「揺れが収まりました。皆さん、気をつけて帰ってくださいね。」

デイケアは解散した。当時、車を所有することができず、歩いて通っていた私は、地震の影響で信号機の点滅が消えて、混乱状態の道路を歩いたのを覚えている。だけど、こんな状況でも人というものは、なんて親切なんだろうか。車は徐行し、お互いにアイコンタクトで譲り合い、何とか道路の秩序を保って、通行していた。私も車の人にどうぞ、と言われて、赤信号でも青信号でもない横断歩道を渡りながら帰った。こんな状況下でも譲り合っていた地元の人たちを、私は今でも忘れることができない。

家は無事だったが、停電していた。何より驚いたのは、その当時まだ健在だったおばあちゃんが、ろうそくの灯りのもと、物置から火鉢を出して、悠々と暖をとっていたことだ。大地震のニュースを見ながら、本人はちっとも慌てふためくことなく火鉢にあたり、お茶を飲んでいる。ガスは確か、まだ使えていた。戦争も経験した人はすげえなぁと感心した。夕方になると両親が帰宅し、我が家の無事が確認できた。特に親しくしていたわけではなかった大学の同級生からも、安否確認の連絡が入り、そこでも、人は親切だなぁ、ありがたいなぁと感じた。けれどその当時、精神科デイケアに通っているとは、同級生の誰にも告げることはできなかった。

私の「キャリア」と呼べるものは、けして格好の良いものでも、体裁が整っているものでもないが、この精神科デイケアから始まったと、私は思っている。あの日、あの時。勇気を振り絞って精神科デイケアに通うことを決めなければ、現在公務員として働く私はなかったのではないだろうか。私の人生の分岐点。それは、2009年から2011年の2年間通った、精神科デイケアだ。精神科デイケアで、人の中でやっていけると、人間関係に自信がついた私は、その後すぐ、臨時職員ではあるが、図書館に就職をした。その後の10年の間に、図書館司書の資格取得、仕事で知り合った人と結婚、娘の出産、公務員採用、と瞬く間に人生が展開していった。精神科デイケアを「キャリア」に数える人なんて、私くらいしかいないかもしれない。だけど、私はあえてそれが私の「キャリア」のスタートラインであり、大切な分岐点だった、と言いたい。26、27歳の私が、本当に人間関係やコミュニケーションに自信がついて、社会でやっていけるだろうと思えた、精神科デイケアがなければ、私は働くこともできなかったし、結婚や出産に踏み出すこともできなかったのではないだろうか。わずか2年間ではあった。だけど、中身の濃い2年間だった。

デイケアメンバーと、調理や創作活動やレクリエーションをし、共に過ごした。時間帯は9時から15時だった。26、27歳の私と歳の近い人もいたし、30〜80代と、年齢層は幅広かった。その中でも、若い方だったから、年上の人で、気兼ねなく話してくれた人もいたし、歳の近い人とは同級生のようにおしゃべりもした。みんな自分の疾患について、事細かにしゃべることはなかった。私も病名を告げたりはしなかった。ただ、具合悪い人は休憩室で横になっていたり、診察日じゃないのに診察を受けていたりしたので、「ああ、あの人も、何か病気を持っているのか。」と、ぼんやりと認識し合っている感じだった。病気が繋げた、不思議な縁でデイケアは構成されていた。普通に暮らしていてはなかなか会えないような人々と、緩やかに繋がっていた。その人たちと穏やかに過ごしていた。トラブルを起こしがちなタイプのメンバーもいたけれど、大半の人は、平和主義の、デリケートで優しい人たちだった。その人たちと2年間を共に過ごす中で、いつしか私は、その人たちに、ただ生きていてくれるだけでいい、と、祈るような心持ちになっていった。何らかの疾患を持ち、ときに休憩室で横になり、ときに診察にかかりながら、その人たちは生きている。まだ、社会でうまくやれないから、デイケアで練習している。もしくは、もう社会で働くことは選択せず、デイケアに通うと決めている人もいた。シェルターのようなここは、独特の雰囲気があった。私には、木が生い茂る深い森が霧がかったような、少し白くもやがかってるような、癒しのマイナスイオンが充満しているように感じた。そう、私は、デイケアの場と、デイケアメンバーに癒されていた。デイケアに通いながら、私は人生の中で2年間の「休み時間」を過ごしていた。デイケアのプログラムは、複雑なものはひとつもなかったけれど、一日過ごすだけで病み上がりの私はひどく疲れた。だから、ゆっくり、まったり、休み休み過ごしていた。今考えると、貴重な「休み時間」だったと思う。以後10年以上、私は長い休みを取らず、就職、結婚、出産と駆け抜けていったのだから。駆け抜けていけたのは、デイケアで大きな、大きな気づきを得たからだ。ああ、私は、生きていていいんだ、と。この人たちにただ生きていて欲しい、と私が願うように、私をそう思ってくれる人も、きっといるんだ、と。何より、自分自身が自分に対して、そう思ってやらなきゃ、だめだ、と。その気づきは、私を勇気づけた。奮い立たせた。まだやれるぞ、と立ち上がらせた。私はもう迷わなかった。例え障害があるからとバカにされたり、粗末に扱われるようなことがあったとしても、絶対に負けない、と。何よりも私が私自身をバカにしたり、粗末にしない。私は生きていていいんだ。この人たちが生きていていいように。この人たちに生きていて欲しいと、心から赤の他人の私でさえも、祈るように。

デイケアは癒やしのマイナスイオンが
充満してるような心地がした

あの日、あの時、あの選択をしたから。精神疾患にかかり、取らざるを得ない選択ではあった。普通に暮らしている人は、精神科デイケアという選択に迫られることはないだろう。私にとって、精神科デイケアは、最後の砦だったのかもしれない。社会と繋がる最後の命綱だったのかもしれない。社会で働けなければ、デイケアに通って過ごす人生でも、悪くはなかった。しかし、私が通っていた精神科デイケアは、現在は就労継続支援B型事業所になっている。私が心配するまでもなく、デイケアは進化を遂げ、私がいた頃から長年通っている方は、そのまま継続して、事業所で働いている。私が余計なおせっかいを焼くまでもなく、みんな少しずつ進化している。進歩している。

毎年3月11日になり、東日本大震災の話題が出て、あの時何していた?と聞かれると、少しギクッとする。「精神科デイケアに通っててさー」とは、人を選ばずには言い出せない自分がいる。だから、大抵はいつもお茶を濁して答えるのだけれど、私の心の中には暖かな、柔らかな記憶が蘇る。東日本大震災は、東北の方々にとって本当に大変な出来事だったが、私にとっても多大なるインパクトを持つ出来事として鮮明に残っている。そう、精神科デイケアに通っていた時代として。震災後の世の中の復興ムーブメントに乗って、私も自身を復興させるべく、駆け抜けた。走り抜けた。震災後、デイケア卒業後は、そんな時を過ごしてきた。今でも疲れやすさと付き合いながらの仕事、家事、子育てをしている。復興、復興、のような熱い気持ちは、現在はもう、持ち合わせていない。ただただ毎日を、こなせるように努めている。人々にとって2011年3月11日が大きな転機だったように、私にとっても、とても大きな転機だった。精神科デイケアに通うというあの時代があったから、あの選択をしたから、今の私が、ある。

当時、デイケアに通っていた方、事業所になってからも通っている方へ。どうか、無理せずに、励まれてください。私の記憶の、大切な宝箱に、入っています。



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