見出し画像

癖を見つける


人と話をしていて、

 そうそれ、

と感じたり

 ん?

と感じることがある。


好き嫌いとか、快不快の話ではない。



例えば会話の落とし所を、

どこに持っていくのが好みなのか、という話。


例えば私は、潮干狩りのような会話が大好きだ。


潮干狩り。

海岸の砂浜に埋まっている、アサリとかシジミとかを、熊手やスコップで掘り出して、バケツに入れるアレである。


そこに埋まっているものがあるなら、

それを探し出して見つける事が、楽しい遊びでもある。


例えば、こういう心の法則を見つけると、

思わずワイワイと嬉しくなる。


自分には、こんな無意識の思い込みや、信条としてることがあった。

だから、自分はこういう心の反応が出て、それが自分を苦しくさせていたのか、と紐解けると

心が途端に軽くなる。


気付くだけで、

そして、笑えるだけで、その呪縛から解放されていく。


私は、そんな心の謎解きゲームをして、心から楽しくなって、笑いたいのだ。


これはもう、自分の嗜好だなあと思う。



安全な壁の中で幸せに暮らしたい。

それも立派な幸せの形。


壁の外の世界を探検したい。

それも、立派な幸せのカタチ。


安全な幸せを幸せと感じる人にとっては、壁の外に出ることを理解できないかもしれないが、

壁の外に出ていく調査兵団は、志半ばで死のうとも、その人生がとても幸せ。


そして、自分の幸せはどんなところに感じるんだろうか。


潮干狩りのように、

自分の心の中に埋もれている、癖を見つけていくと、ある日突然笑えてくる。


また、これか。


現れてくるものが、毎度お馴染みの癖になってきて、


(*´ω`*)どんだけだよ


と、自分自身に裏手ツッコミするようになってくる。


掘っても掘っても、またシジミ(*´ω`*)

積み上がる、癖という名のシジミの山に

可笑しくて笑いが止まらなくなる。



潮干狩りで笑うには、会話でないと成立しない。

何故なら、ひとりでシジミを掘っていても、

「潮干狩りとはシジミが出てくるものなのか」

としか思えないからだ。


シジミの山に笑えるのは、一緒に潮干狩りをする相手が、目の前でアサリばっかり掘りだしてくれるからこそ、

(*´ω`*)私またシジミ

となるのであって、一緒に潮干狩りする相手もシジミばっかり掘る人では、またその癖には気付けない。


笑い合うためには、絶妙に、目の前でアサリを掘り出して見せてくれる人が必要なのだ。



一緒に潮干狩りをしながら、

違うものを砂浜から掘り出して見せ合っていると、

後に豊かな具材の料理が仕上がってくる。



それを、爆笑しながら一緒に食べられたら

なんとなく、素敵な感じがするなあ。


心の中に埋められた癖の一つ一つには、

気づかないうちは苦しさを、

気づいたら楽しさを、

もたらす魔法が仕掛けられているのかもしれないと、ふと思った。



この記事が参加している募集

#とは

57,836件

#振り返りnote

85,359件