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【書評】谷崎潤一郎「陰翳礼賛」


#読書感想文

【陰翳礼賛:谷崎潤一郎:青空文庫

 西洋文明によって抹消されかかっている日本的美意識を、陰翳に焦点を当てて回顧的に語ったエッセイ、といったところ。

 著者の作品は吉野葛くらいしか読んだことがない。あの作品で最も印象に残っているのが、山あいの寒村で主人公が食べた「熟柿(じゅくし)」にまつわる描写で、場面や状況と混然一体となった微細な描写が卓越していた。本作も作家の鋭い感性で日常の物事が有機的に、微細に描写されており、引き込まれる。
 寡読ながら、谷崎というと何となくエロ系のイメージというか、ドロドロしたアブノーマルな恋愛を描いているというイメージがあったのだが、本作を読む限り「トリビアルな物事への愛」を感じ、ちょっと印象が変わった(まあ、そういう細部への愛がフェティシズムへと結びつくと考えると、この印象は地続きではあるのかもしれないが)。

 この方面の作風というと、例えば梶井基次郎、ニコルソン・ベイカー、レーモン・ルーセルなどが思い浮かぶ。
 個人的には好みである。

 家屋を隈なく明かりで照らすのはよろしくない。なんでもかんでも電燈で明るく照らしすぎるから、物事が白々しくつまらなく見える。というのが概ねの主張で、これを前提に、陰翳というものがいかに物事に興趣を与えるのか、ということをかつての日本に照らして語ってゆく。時代背景として、だからちょうど技術の進歩で街や家に電燈が普及した頃のことなのだろう。
 例えば。

 豪華絢爛な蒔絵を施した漆器がある。これを電燈の明かりのもとに見るといかにもケバケバしく見えるが、ろうそくのかすかな明かりのもとで見ると陰翳のなかに金の輝きが浮かび上がる、幽玄の美が現れる。
 日本家屋は壁面が木材やぬりかべであることもあって、雨をしのぐため軒が深い。そのため家のなかは薄暗いのが常である。その薄暗い家のなかに、手と顔だけを出した(能の衣装のような)格好で蟄居する平安貴族の女などには陰翳の美がある。
 ただの味噌汁もろうそくの明かりのもとで飲むとおいしい。
 虫の音を聞きながら夜闇のなかで瞑想にふけることのできる離れの厠には興趣があったが、今のトイレはよろしくない。
 古色を帯びた物を尊ぶのは、全体の調和のためであり、例えば床の間を飾る掛け軸などはそれそのものが鑑賞対象というよりも、全体のなかの一部分であり、言ってしまえば壁や畳や床柱などと同等の一種の景色である。

 等々。
 谷崎の時代から時を経た現代のわれわれには、もはやこのエッセイを実感をもって読むことが難しくなってしまったかもしれない。渡辺京二「逝きし世の面影」で言われているように、われわれはもはや日本の死を実感さえできないのではないか。そもそも日本家屋が少ないし、都会に住んでいるとどこもかしこも、街路でさえ街灯に照らされて暗がりがない。

 かろうじて自分のなかの陰翳礼賛を探ると。
 例えば自分はシーリングライトが好きではない。部屋を隈なく照らされると居心地が悪く、居て疲れるので、部屋はすべて間接照明で照らしている。
 ……そのくらいだろうか。

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 そう、最近東京国立博物館の常設展を見た。
 あくまでも博物館であって美術館でないのは承知のうえ、そもそも知識に乏しいので、ああいった展示物を見る際にはどうしても美的鑑賞の眼で見てしまう。ほぼ半日をかけていくつもの品々を見て回ったものの、美的に感心のあった鑑賞物は埴輪くらいのものだった。
 上記した絢爛豪華な蒔絵の漆器や、華美な刀剣、甲冑、着物。
 それこそ能の衣裳や能面などもあった。
 仏像などもあった。
 しかしそのどれもが個人的な美意識の琴線に触れるものではなかった。
 ――というのは、あれら物品が隈なく明かりで照らし出されてしまったことによるのではないか。
 と、本作を鑑みて思う。
 絢爛豪華な物品などは、特に谷崎が指摘したように、展示室の明かりのもとで見るとケバケバしくて感心しなかった。しかしあれが当時の薄暗い日本家屋のなかにあり、ろうそくの明かりに照らされていたとしたら、やはり印象は違っていただろう。
 それこそ抜き身の刀なども、暗がりで鈍く輝く姿はさぞ凄艶なものだろう。

 では埴輪はなぜ美的に見えたのかというと。
 陰翳の論理で言うと、そもそも縄文時代には陰翳がなかった、日のもとでの美が尊ばれていたから隈なく照らされても価値が減じることがなかった、と言えるのかもしれない? 
 あるいは埴輪の陰翳というものは、あのくりぬかれた眼や口の奥にすでにあるので、隈なく照らされてもしらけるということがない、とも言えるのかもしれない。
 思えばあの埴輪のくりぬかれた部分の闇というのは、ちょっと吸い込まれるような、不思議な魅力がないだろうか。





一部一答


 古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。

 確かに。蒔絵に限らずそういう金属光沢というのは、陰翳のなかでこそ美が現れるように思う。博物館のことを上記したが、思えば伝統工芸展などでも豪華な蒔絵の漆器にあまり感心しなかったのも同じ理屈だろう。

 まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられている如く、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちら/\と伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。

 蒔絵の施された漆器にまつわる一文。漆器の光沢のある表面を水面に見立て、ともしびがちらつく様子を「夜そのものに蒔絵をしたような」と表現する。少々気障な感はあるが、情景がぱっと浮かんでくるような一文。

 私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。

 確かに、木の器の場合そういう音が鳴る。しかしあの音にそこまでの興趣を見いだす感性がすごい。

 美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれ/\の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。

 用の美、という言葉が浮かんだが。もとから陰翳を美的対象として愛でたわけではなく、陰翳と共にあればこそ、そこに美を見いだすようになった、と。これはちょっと面白いし、見方として重要な気がする。この考えでいくと、LEDの普及によってさらに陰翳が払拭された現代においては、むしろ陰翳ではなく光輝に美を見いだすようになってもおかしくない。あるいは、それでも光輝のなかの陰翳に美を見いだすようになるかもしれないが。
 陰というのはしかし、光と対の在り方をしている。――ああ、そうか。厳密に言うと、闇のなかの光を美と見ているのではないか、闇そのものではなく(天井にわだかまる闇そのものを愛でる記述もあるが)。闇のなかでこそ光が美しい、という。実は陰翳礼賛ではなく、(陰翳のなかの)光礼賛では? 
 闇そのものの魅力、か。ぱっと想起されるのは夜の森だ。夜の森に入ると闇が質量を伴って感じられる。息が苦しくなるほどの闇、というのは現代社会、とくに都会に住んでいるとなかなか体験することができない。
 闇の魅力というのは、田舎の魅力と通じるところがある。都会はすべての空間が人間の領域だが、田舎は「人間の領域/それ以外」というように区別がある。森、川、山など人間の居住地でもなく、通り道ですらない場所というのが多くある。それが田舎の魅力で、例えば都会に暮らしていると地平線の彼方まで人間の領域で埋め尽くされており息苦しさを感じるが、田舎はあくまでも土地に人間が間借りしているという印象が、ある種の快さを生む。そう、生活における「余白」と言えるかもしれない。
 谷崎が礼賛するところの陰翳というものは、部分的には「余白」と言い換えられるだろう。西洋文化は光でくまなく照らす。なんでもかんでも明らかにしたがる(ああ、ある種の空白恐怖があるのかもしれない)。科学、合理主義。しかし事実としてそんなことは不可能だ。むしろ、余白があるからこそ自らの領域が明らかになる。そして余白という場所に(可能的にであれ)立つことでこそ、自らの領域を客観視することもできる。そう、だから自分にとって書物やフィクションの世界が余白として働くことで、自らの生そのものを客観視することができており、そのことでかろうじて呼吸している。ああ、そう考えるとこの論考は(あるいは当の谷崎が考えていたよりも)深い。
 そこまで論を展開すると、谷崎よりも深い論考が書けるかもしれない。……書く? 

 美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。

 ものそのもののみを抜き出して美的対象とするのではなく、ものをそれが在る空間ごと、場として見る、という見方が面白い。これもまた日本的な美意識なのかもしれない。安直な例だが、枯山水などはまさにそうだろう。岩の配置から借景まで、場の美学が働いている。

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