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【短編小説】キュウリの味噌汁

 給食を食べ始めて五分と経たずに思いっきりゲロをぶちまけた吉田の顔を思い出して笑ってしまったのは、妻の香澄が用意してくれた朝食の味噌汁を啜った時だった。
「どうしたの?」と香澄が咎めるような視線を向ける。
 彼女は過去の話を嫌う。思い出話は止そうと思った矢先、娘の沙也加が僕の膝の上にちょこんと座った。
「パパ。何かいいことあったの?」
「どうして?」
「笑ってたから」
「んー、それはねぇ」
 鬼のような形相で時計を指差す香澄と目が合う。さっさと食べてさっさと行け、と無言の命令。そそくさと沙也加を膝から下ろし、さらさらの頭を撫でて「この続きは帰ってきてからな」と泣く泣く昔話を中断した。ぶーぶー、と響く愛娘のブーイングを背中に浴びながら、僕はカバンとゴミ袋を掴んでマンションを後にする。
 うだるような夏の終わりと秋の訪れを同時に告げる爽やかな風。空が高かった。それでも、乗り込んだ満員電車はちゃんと窮屈で苦しい。おじさんのつむじから顔を逸らそうと格闘していると、ふと中吊りに目が留まる。新潟県への旅行を促す内容だった。稲穂が揺れる広告写真は本物の新潟よりもよっぽど綺麗に見えた。僕が暮らしてきた新潟は、もう少し間延びして退屈な町だった気がする。
 ふるさとの記憶の中で僕が唯一笑えるものがあるとすれば、今朝思い出したあの事件。小学校開校以来、最も給食が残された日として同窓全員の記憶に刻まれている伝説。たった一杯の味噌汁が与えた被害はあまりに甚大で、僕たちから数え切れないほど多くのものを奪っていった。たとえば吉田のあだ名は卒業するまでゲロになったし、あまりに強烈な一日だったから誰も忘れていなくて、十数年ぶりに集まった同窓会でも吉田は『よぉゲロ』といじられていた。吉田の好感度はその一件からうなぎ下がりで、高校になってやっとできた彼女と街を歩いているときにばったり小学校の同級生と出会ってしまい『よぉゲロ』と呼ばれてしまったがために、元いじめられっ子の高校デビューだと勘違いされてフラれた。あれ。こうしてちゃんと思い返すと結局奪われたのは吉田の尊厳だけかも。
 いや、違う。それだけじゃない。今思い出しても散々な目に遭った吉田だが、僕は、僕だけは知っている。あの味噌汁を取り巻く事件の裏で、吉田なんて目じゃないくらいにもっと大きな被害が生じていたこと。クラスの誰もが、担任さえ吉田のゲロに慌てふためいていたあの時、僕の向かいで黙って味噌汁を啜っている少女がいたこと。彼女と僕だけが、あの味噌汁を完食したこと。彼女が喧噪の中にぽつりと零した『これじゃない』という言葉と、その意味を。
 広告内の新潟をぼんやり眺めながら、僕はあの夏の日を思い出す。夏休み前で浮足立っていた一学期最後の給食で、僕と彼女は給食当番だった。
 
 僕の担当はほうれん草の和え物。副菜に当たる。すでにご飯と牛乳、主菜をお盆の上に載せたクラスメイトたちの列をベルトコンベヤーに見立て、ぽん、ぽん、と流れ作業の配膳を数回繰り返したところで、僕はあることに気付いた。
 放送委員が流す音楽の音量がさっきより大きい。いや、違う。あんなにうるさかったクラスメイトたちの声が、小さくなっている。教室をぐるりと見回すと給食を前に同級生たちはさっきまでのテンションが嘘だったように静まり返って、誰も彼もが味噌汁のお椀を覗いていた。「今日の味噌汁に何か問題でも?」とシェフよろしく聞いて回ろうかと思ったけど、やめた。それなら隣に立っている汁物担当に聞いた方が早い、と横を向いた瞬間、僕の口からひゅっと息が漏れた。
 汁物担当で、僕と同じ班の藤田。彼女は味噌汁が入った寸胴に何かをぶつぶつと呟いていた。呪詛だ。味噌汁に呪いをかけているとしか思えない。その目は完全に開かれ、黒目に光はなく、普段の柔らかな雰囲気は見る影もない。おまけにマスクで顔が見えない不気味さも相まって、味噌汁に親を殺された恨みで現世を彷徨う地縛霊そのものだった。というか普段とのギャップが怖い。いつもはもっと優しい空気感の女の子なのに。
「藤田?」
「……がう、ちがう、そうじゃない」
 あぁ、たしか、お父さんの車の中でそんな歌を聞いたっけ。
 違う、そうじゃない。
「藤田。何かあった?」
 少し近付いて耳元でそう聞くと、藤田はようやく僕に気付いた様子で、少し跳ねた。
「に、西条くん!」
「大丈夫? 体調悪い?」
「ぜんぜん、いつも通りだよ?」
『そんなわけないだろ、クラスメイトに地縛霊がいてたまるか』とは言わなかった。
「体調じゃなくて、悪いのはこの世界だよ。西条くん」
「なんて?」
 本当に、なんて?
「こんな味噌汁を作った給食のおばさんも、こんな企画を考えた栄養士も、今からこれを食べるあいつらも。みんな、みんなが悪いんだ」
 藤田はさっきより強い呪詛を吐き始める。状況を確認したい。もう一度教室を見回す。藤田は何かに憤っていて、その憤りとクラスの沈黙には何か関連があるはずだ。この二つを結ぶのは、味噌汁。ここで思考は目の前で配膳を待っている最後の二人、吉田と井口のバカコンビにかき消される。
「今日の献立、誰んちのメニューなんだろうな?」と吉田。
「俺んちのだったらヤだなぁ、だって三食母ちゃんのメシってことじゃん?」と井口。
「は? 朝と夜と、昼だろ? ってあれ、三食か」
「何言ってんだお前?」
 副菜の前できゃあきゃあと騒ぐ二人のお皿に素早く副菜を乗せる。バカ二人組は副菜が乗っていることにも気づかないまま呪詛師、もとい藤田の前へと歩み出る。そして。
「うわっ、なにこの味噌汁の匂い」
「グロっ! 食いもんかこれ」
 きっとこれがクラスを沈黙させた理由。今日の味噌汁は、キュウリの味噌汁だった。バカ二人を除いて誰もが口を噤んだ圧倒的ビジュアルの不穏さ。茹でたことで半透明になったキュウリの輪切りがぷかぷかと浮かび、各キュウリの真ん中にある種がどう見ても食材っぽくない。そして実はかなり前から気づいていたけど誰も口にしないように心がけていた、青臭さ。様子がおかしい藤田はバカ正直なバカ二人を見もせず、寸胴に大きな金属のおたまをぽちゃりと沈めてぐるぐるかき混ぜ続ける。焦点の合わない両目でゆらりと立つ幽鬼のようなその様は、魔女が毒薬を作るイメージを彷彿とさせた。藤田がぐるり、ぐるりと混ぜるたびに濃厚なキュウリの香りが漂う。キュウリ畑が、広がる。
 それは僕の嫌いな匂いじゃなかった。というか朝から鼻が詰まっていた。それでもキュウリの匂いが鼻腔を突き破ってきていることを考えれば吉田と井口にとっては相当強烈な匂いだったはずだ。魔女の表情が曇っていくことなどお構いなしに、好き勝手にきゃあきゃあと騒ぐ。
「こんなの食えねーって。いったい誰の親だよこんな飯作らせたの!」と吉田。
「お前んちじゃねーの?」と井口。
「いや母ちゃんは料理上手だ。井口の家だろ? さっきも三食食べたくねーって言ってたし」
「ふざけんな。お前こないだうちで美味い美味いってかつ丼食べてただろ」
「あれはお前の母ちゃんが買ってきたかつやのかつ丼だ」
「あれ、そうだっけ?」
 そう言いながらも藤田から手渡された味噌汁を手に騒がしく遠ざかっていくバカ達を見送ると、隣の藤田が俯いていた。
「藤田、席戻ろ」と声をかけると、藤田は泣きそうな表情で僕を見た。
「あ、うん」
 僕らが席に着くと、明らかにさっきより深い闇に落ちた藤田の気持ちを置き去って陽気な昼の放送がスタートした。
『みなさんこんにちは! 給食委員の秋山です』
 明るく響くのは放送委員の秋山先輩の声だ。長身の、六年生の女子の先輩。抑揚を付けて淀みなく原稿を読み上げる先輩の放送は人気だった。
『今日の献立は特別に、皆さんのお父さんやお母さんからレシピを募集して、お家で作っているメニューを再現しています』
 そういえば。バカ二人もそんなことを言っていた。レシピのアンケートを提出した記憶がよみがえる。
『今日の献立はご飯、牛乳、豚肉の梅だれ焼き、ほうれん草の和え物と――』秋山先輩の声が一瞬だけ淀む。『キュウリの味噌汁です』
 少しだけざわめきを取り戻していた教室がまた水を打ったようにしん、と静まり返る。
『そして、今日の献立に採用させてもらったのは――』
 ついに隣のクラスも静まり返る。音が消える。誰もが先輩の次の言葉を待っている。この献立を考えたのはどのご家庭なのか、秋山先輩の一声を聞き逃さないように全校生徒が耳を澄ませる。秋山先輩が息を吸う音が、やけにゆっくりと聞こえた。
『……内緒でーす。みんなで当て合ったり考えたりして、感謝しながらいただきましょう。それでは、いただきます!』
 それが先輩の気遣いだったと知るのは、もう少し後のこと。とにかくその瞬間、号令を受けた僕らは一斉に箸を持つ。かちゃかちゃかちゃと箸を持つ音がライフルを構える小隊のようにこだまする。
 瞬間、後方から女子の絶叫が聞こえた。何事かと振り返ると、銃弾のように飛び込んできたのはバカコンビの片割れ、井口の怒声だった。
「おい、かかったんだけど!」
 井口の向いの席に座っているのは、吉田だ。吉田が濁流のようなゲロを吐いていた。目を擦る。開く。まだ吐いていた。ガン開きの目は血走り、顎が外れるほどの大口を開け、一心不乱に吐き続けていた。ドン引きした女子はその小さい身体のどこから出ているのか分からない叫び声を上げる。どこからか聞こえてくるすすり泣き。ここは、戦場だ。一学期最後の楽しい給食の時間を過ごすはずだったこの場所は、現時刻をもってグラウンドゼロに成り果てる。メディックよろしく担任の先生が奔走するものの、手が足りない。雰囲気も匂いも、もはや食事どころじゃなかった。
 前を向く。つくづく今日は鼻が詰まっていて良かった。背後では未だ阿鼻叫喚が鳴りやまない。これ、そんなに不味いの?
 僕はじっと疑いの目を向ける。ぷかぷか浮かぶキュウリと目が合った。自然とお椀に手が伸びる。確かに匂いは強烈だった。口元に近づけるだけで鼻詰まりの奥にキュウリがワープしてくる。でも不思議と嫌な匂いじゃなかった。勇気を出して一口啜る。美味しい。全然美味しい。輪切りになったふにゃふにゃのキュウリを箸でつまんで口へ運ぶ。ナスみたいに柔らかくて、それでいて瓜っぽい味わいが残ったキュウリは、どこか新鮮な味。生以外でキュウリを食べたことって、そういえば一回もないや。確かに少し青臭いけど、吐くなんて大げさだ。ひょいパク、ひょいパクとキュウリを食べて、キュウリの風味が残った味噌汁を啜る。
 気づけば僕は他のおかずも含めて完食していた。キュウリバリアで胃液の匂いがかき消されたおかげもある。牛乳を飲みながら教室を見回す。一人だけ早めに終わったテストの残り時間みたいな気持ちだった。クラスの大半が吉田のゲロで食欲を失ったらしく、虚ろな目で牛乳パックに挿したストローをちゅうちゅうと吸い込んでいる。ちょっとしたディストピアだった。
 吉田は既に消えていた。メディックに連れていかれたらしい。ゲロがかかった井口と女子は既に体操服に着替えていて、ぶつくさと文句を言っていた。
 ふと、藤田がじっと僕を見ていることに気付く。その視線は僕のお椀に注がれていた。
「あ、西条くんは、全部食べたんだ」
「藤田も全部食べてるじゃん」
「……あのさ、」
 小声で「ちょっと来て」と言い席を立つ。僕も空になった食器を片付けてから何事かと付いていく。藤田は一階の階段下の暗がりまで来ると僕のほうを振り向き、開口一番、
「キュウリの味噌汁、どうだった?」
 返事によってはで呪われそうな質問を投げた。僕は即答する。
「生じゃないキュウリって食べたことなかったんだけど結構好きかも。美味しいね」
 どうしてそんなことを、と尋ねたい衝動に駆られながらもまずはキュウリの味噌汁の感想を述べてみる。藤田も完食していたし、嘘じゃないし、とりあえず美味しかったと伝えれば呪われないはずだ。
「あれが、美味しい? 今そう言った?」
 と思ったけど違ったかもしれない。藤田の目が暗く輝く。ミスった。ごめんなさい。土下座かダッシュか、他に有効打になりそうな手はないかと一瞬で脳内四次元ポケットをまさぐるも、なぜか出てくるのは吉田と井口の顔。映画版ドラえもんくらい使い物にならない。
「あんなの全然ちがう。ちがうの」
 その声で、はっとした。藤田はさっきも味噌汁を忌々しそうに見つめて呪詛を吐いていた。
 そして『違う』という言葉――。藤田はキュウリの味噌汁の謎を握っている?
 いや、キュウリの味噌汁の謎ってなんだ。僕も混乱していた。
「な、何が違うの?」
「キュウリの、アクが」 わなわなと身体を震わせ、頭を抱えて仰け反る。
「アク?」
「アクを抜かないと、ダメなのぉぉぉ!」
 そのまま後ろに倒れて気を失った。エクソシストか。
 藤田が次に目を覚ましたのは、放課後の保健室のベッドの上だった。

 倒れた藤田を保健室に運んだあと、担任に藤田が倒れたことを伝えると、すでにへろへろの担任は「藤田さんまで、どうしてそんなことに」と泣きそうな声を出した。状況を説明すると「アク……アク?」と困惑していた。様子を見に行くため、担任と一緒に教室から保健室へ移動する。その最中、担任はこっそりと僕に教えてくれた。
「今日の献立ね、藤田さんのお家のご飯なの」
 なんだって! とは思わなかった。みんなは吉田に、というか吉田のゲロに夢中だったけど、僕は彼女が完食したことを知っているし、それなら今日の様子のおかしさにも納得できる。自分の家のご飯が貶されたら、誰だって正気ではいられない。だから担任はすぐに吉田を教室から引きずり出して、みんなが少しでも給食を食べられるように計らったんだ。さっき見たら担任も味噌汁を残していたけど。
 保健室のドアの前で、僕は思わず立ち止まる。目を覚ました藤田がまた悪魔に取り憑かれていたらどうしよう。手がじわりと汗ばむ。藤田の奇行を目の当たりにしていない担任の不思議そうな視線を受け流し、意を決してドアを開けると保健室の中へ足を踏み入れた。
「藤田……!」
 藤田は保健室の先生に羽交い絞めにされながら半狂乱になってベッドの上で「アク! アク!」とヘッドバンキングをしていなくて、大人しく眠っていた。安心する僕を横目に、担任は保健室の先生と何事かを話し始める。僕はベッド脇から藤田を眺めた。僕がじっと藤田を見つめていたからか、担任は「西条が見ててあげて。先生たちはちょっと臨時集会が……」とさっきよりやつれた顔を浮かべ、ゾンビみたいな足取りで保健室の先生と一緒に保健室を出ていった。
 僕は藤田のことを考えた。給食の時に様子がおかしかった藤田。味噌汁を完食した藤田。キュウリの味噌汁を否定する藤田。眠っているはずなのに目元から透明な雫をこぼす藤田。優しくて家族想いで、ちょっと空回り気味な、藤田。
「起きてる?」
 どっちでもよかった。独り言のつもりで続ける。
「味噌汁って家によって絶対に味が違うよね。おばあちゃんの家で思ったんだ。おばあちゃんとお母さんは同じ味噌で味噌汁を作るんだけど、微妙に味が違ってね。試しに同じ具材で作ってもらったときもちょっと違って。他のは同じ味なのに不思議だよね」
 藤田は何も答えなかった。
「きっと味噌汁って作った人の味になる料理なんだよ。味噌汁の味を好きになるって、その人を好きになるってことと同じなのかな」
 藤田は向こうに寝返りを打った。
「それで言えばテレビで見たんだけど、プロポーズの決め台詞って僕に味噌汁を作ってください、なんだって。関係ないか」
 藤田は何も答えなかった。
「えっとね、藤田の家の味噌汁を食べたかったら、藤田の家で食べるしかないんだよ。藤田のお母さんかな? お母さんが作ってくれたそれが、藤田家の味噌汁。だから今日の給食は別物なんだよ」
 藤田は「うん」と答えた。
「僕は今日のも美味しいって思っちゃったんだけど。でもさ、もうここまできたら本家の味を食べてみたいよね。きっと今日のキュウリの味噌汁よりずっと美味しい。そうなんでしょ?」
 藤田の嗚咽が保健室を濡らす。藤田は何度か首を縦に動かした。
「じゃあさ、作って食べさせてよ。藤田の味噌汁」
「うん……えっ?」
「いいの?」
「いやいいっていうかその……なんでもない」
 そっぽを向いたままの藤田が静かに言う。
「じゃあ、お詫びに、今日もしよかったら味噌汁食べに、ウチ、くる?」
「いくいく!」
 そういえばこんなやりとりをテレビで見たことあったな、と思いながら口にすると、藤田は気恥ずかしそうに振り返った。
 
 藤田の家は学校の近くで、僕の帰り道の途中にあった。意外とご近所さんだ。家の横にある大きな畑を通り過ぎ、二階建ての大きな家の玄関に差し掛かったところで麦わら帽子を被ったおじいさんと鉢合わせる。藤田が「おじいちゃん」と紹介し、おじいちゃんには「西条くん。今日倒れたのを助けてくれたの」と紹介してくれた。おじいちゃんは嬉しそうに顔をしわくちゃにして笑った。
「よぉ来たねぇ。泊まっていきないや」
「いえ、キュウリのお味噌汁を作ってもらう約束で来たので」
 おじいちゃんは何が面白いのか、手をパンパン叩いて笑い始めた。顔を真っ赤にした藤田がおじいちゃんを家の中にもう一度引っ込めようとぐいぐい押すけど、おじいちゃんはびくともしない。農作業で鍛えたであろう足腰は強靭だった。
「俺のカミさんが初めて作ったのもキュウリの味噌汁でなぁ」とおじいちゃん。
 藤田は早々におじいちゃんの運搬を諦め、無視を決め込んで僕の手を引いて玄関をくぐった。しゃがれた声がもう一度「泊っていきないね」と背中に投げられると、藤田はそれに反応するみたいに一瞬だけ強く僕の手を握った。藤田家にとってキュウリの味噌汁は特別な料理なのかもしれない。
 キッチンの中から出迎えてくれた藤田のお母さんは藤田によく似ていた。エプロンが似合う綺麗な人だった。藤田はおじいちゃんにしたのと同じように僕を紹介したあと、晩御飯をご馳走したいとお願いした。お母さんは料理を作る手を止めて僕の前に来るとしゃがんで頭を下げた。
「この子は抜けてるところがあるから心配だったの。迷惑かけちゃってごめんね」
「いえ、そんなことないです。いきなりアクって叫びながら倒れたからびっくりしましたけど」
 藤田が「あっ」と僕を止めようとするのを、それより早くお母さんが手で押さえる。
「気にしないで。全部教えて」
 お母さんの背後から僕を見る藤田と目が合う。僕はなぜか保健室で泣く藤田を思い出して、正直に伝えることにした。
「えっと――」
 すべてを聞いたお母さんはため息を吐いて藤田を見た。
「ごめんね。お母さん、ひとつ嘘をついてた」
「嘘って?」きょとんとした表情で藤田が聞き返す。
「それは」とお母さんが言った瞬間、リビングのドアが開いた。すらりとしたスーツ姿の男の人が慌てて入ってくる。続いて、いたずらっ子みたいに笑うおじいちゃんの姿。
「なぁ恵梨香、香澄が倒れたって――あれ?」
 男の人はぴんぴんしている藤田と僕を交互に見て、ふっ、と口元を緩めて「おい親父」とおじいちゃんの肩を軽く叩く。
「俺に似て子煩悩だからなぁ、お前」とおじいちゃんは白い歯を見せた。
 スーツ姿の男の人は藤田のお父さんだった。仕事から帰ると同時におじいちゃんからわざと「藤田が倒れた」とだけ伝えられたために心配してしまったそうだ。僕は藤田が泣いていたことは言わなかった。事情を聞いたお父さんは僕のそばへ来ると丁寧に頭を下げる。
「娘を助けてくれてありがとう、西条くん」
「そんな、助けたわけじゃなくて。でも、お礼にキュウリの味噌汁を飲みに来ました」
 お父さんは「キュウリの味噌汁」と呟くと不思議そうな顔を浮かべた。すぐにお母さんが「ちょっと」とお父さんを連れてキッチンへ消える。おじいちゃんはまた表へ出かけてしまって、僕と藤田はダイニングに取り残される。急に静かになったからか、僕はうとうとしていた。だって、今日は大変な一日だった。あの給食が遠い昔のことのように感じる。隣に座る藤田も安心したのか、眠そうに目を擦る。穏やかな時間だった。
「藤田も将来あんな風にエプロンが似合う人になるんだね」思いついたままに口にした。
「そうなれるかなぁ」藤田は眠そうな声で答える。
「なれるよ」
 藤田は少し緊張したように膝を抱き、上目遣いで僕を見る。
「じゃあさ、ちょっと耳貸して」
「ん?」
 少し身体を寄せる。藤田の肩が僕の肩に触れる。嗅ぎ慣れない、知らない柔軟剤の香り。
「——毎朝、私の味噌汁を飲んでくれる?」
 それって、どういう。僕が硬直していると、タイミングよくお父さんとお母さんがキッチンから戻ってきたので僕らはすぐに身体を元の位置に戻した。いけないことをしているような気持ちになる。叱られないかと二人を見上げると、二人は藤田の前に立って申し訳なさそうな顔を浮かべている。怒られるわけではなさそうだった。
「香澄、さっきの話の続きなんだけどね」さっきの話というと、お母さんの嘘のことだろうか。
「実はね、あのお味噌汁のレシピね、未完成なの」
「え?」
 戸惑う藤田に、お母さんはいつも家で食べていたキュウリの味噌汁を作っていたのは私じゃない、と釈明した。ぽかんと呆ける藤田。今度はお父さんが申し訳なさそうに口を開いた。
「キュウリの味噌汁だけはお父さんかおじいちゃんが作ってたんだ。騙したみたいになってごめん」
「え、え? どういうこと?」
 戸惑う藤田を宥めるようにお母さんが言う。
「キュウリのお味噌汁だけはどれだけ教わってもおばあちゃんと同じ味にできなかった。学校に出したレシピは、正直、再現できないだろうなぁって思いながら書いちゃった。上手に作らないと美味しくならないことも知ってたのに、言い出せなくて。そのせいで悲しい思いさせちゃったね」
 藤田は今一つ飲み込めない顔を浮かべた。
「もちろん私にとっても大切な味だったから、おばあちゃんが亡くなったあとも何度かチャレンジしたんだけど、どうしても同じ味にはならなくて……」
 そこでお父さんが口を開く。
「それで、試しにお父さんが作ってみたんだ。そうしたら、作れた。何度も味見しながらだけどね。ずっと母さん――香澄のおばあちゃんの味噌汁を飲んでたから、たぶん、舌が覚えてたんだ」
 ちなみに親父も作れるよ、とお父さんは付け足してから続けた。
「給食で出た味噌汁の味が違うのは当然なんだ。もちろん給食のも、お母さんのも嘘ってわけじゃないんだけど、記憶を頼りに味見しながら作ると、どうしてもその人がいつも飲んでいる記憶の中の味噌汁の味に近づいていくから、うーん」
 お父さんはなんと表現すればいいか迷っているようだった。レシピ通りに作っても作れない。教わっても難しい。そんな味があるとすれば、それは。
「秘伝の味みたいなもんだ、なぁ?」
 横から声が聞こえて、僕はびくりと身体を震わせた。いつの間にか戻ってきていたおじいちゃんがなぜか僕の隣に立っていて、僕の肩に手を置いた。僕は曖昧に「はい」と言った。
「こっちは50年以上飲んできたんだから再現なんて簡単よ。レシピじゃなくて歴史で作るもんだ、味噌汁ってのはな」
 そう言って胸を張るおじいちゃんの手にはビニール袋。ぴょこぴょこと飛び出しているのは太くて大きな緑の夏野菜。キュウリだった。お爺ちゃんがいそいそとキッチンへ消えていくと、さっきまでのしんみりした空気はすっかりどこかへ吹き飛んでしまった。味噌汁は歴史で作るもの、という言葉になぜか圧倒されて黙っていた僕らは、しばらくしてから顔を見合わせて、笑った。
 
 ガタン、と車内が揺れて現実へ戻る。振動に合わせて広告の中の新潟が揺れた。それからのことはもう記憶が曖昧だった。それでも、結局その夜は藤田の家に泊めてもらったことと、藤田の家のシャンプーは僕の家とは違う香りだったことと、採れたてのキュウリで作った味噌汁が本当に美味しかったことと、家族と笑い合う藤田の笑顔を好きになったことは、今でも鮮明に覚えている。

 仕事終わり、帰ってきたマンションのリビングで晩御飯をつついていると、キュウリの味噌汁を片手に持った沙也加が「そうだ」と切り出した。やはり朝の話はすっかり忘れているようで、特にせがまれることもなかった。何よりだ。僕が怒られずに済む。
「今度ね、給食で誰かの家のメニューを再現するらしくて。ママのこのお味噌汁って珍しいし先生にレシピ教えていい?」
 そう言って机の上に差し出されたプリントには『レシピを教えてください』の文字。僕たちは顔を見合わせる。香澄は困った笑顔を浮かべて沙也加に言った。
「沙也加、今週末に新潟のおじいちゃん家まで行こうか」
「どうして?」
「沙也加のひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんのお墓参りに」
「えぇ、なんで?」
「んー、レシピの開発者たちに許可を取りに行くため?」
 ね、と唐突に向けられた視線に答えるように僕は微笑んだ。思い出すのは懐かしい青臭さと、生まれ故郷の盆地を囲む雄大な山々。
「パパも笑ってるー! なになに、教えてよぉ!」
 じゃれつく沙也加の頭を撫でる。柔らかく滑らかな髪の合間を縫って、いつかと同じシャンプーの香りがふわりと漂った。沙也加に本場の味を教えてやるのも悪くない。唐突に決まった週末の予定に、僕の胸は少し高鳴っていた。


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