見出し画像

ヨイトマケの唄ってさあ、あれってさあ……

母方の親戚に元ヨイトマケがいた。

鳶職人たちがヤグラを組む。で、近所の奥さん連中に声をかけて臨時で雇う。奥さん連中は、ヤグラの中心から伸びた縄を引っ張る。縄の先には丸太が括り付けられている。縄を手放すと丸太が落ちる。そうやって地均し、地固めをしていた。それがヨイトマケ。いわばガテン系のパート。

しかーし、その親戚は無給でヨイトマケをやっていたのだ。なぜかって? 彼女の旦那がヨイトマケを雇う側の鳶だったから。それもカシラ。

ちなみに彼女の旦那はビルマ(現ミャンマー)で終戦を迎え、最後の船で帰国したので戦後すぐには鳶に復職していない。そのため、カシラが帰国するまでは同僚が色々やっていたのだろうと思われる。それまでは戦死したと思われていた。

現在でもパートだけで生計を立てられないように、当時もヨイトマケだけじゃ生計は立てられない。生活費の足しか小遣い稼ぎかオカズを一品増やすためか知らないけど、奥さん連中は各々の理由でヨイトマケをやっていた。
なぜ女性ばかり引き受けてたか。そりゃあ男はどっかで働いてるから。男が混じってたらソイツは鳶職人か無職。いや、ヨイトマケをしている時点で無職ではないけど。

彼女の子供たちは、母親がヨイトマケをやっているという理由でいじめられることはなかった。そりゃそうだ、ご近所みんなヨイトマケで小銭稼いでるんだもん。学校に何人もヨイトマケの子供がいるだもん。いじめられようがない。
ただ、汚い格好してるなあとは思っていたらしい。それは現在の「キツイ汚い危険」の3Kと同じだろう。
 
1940年代の東京で生まれたあるタレント(誰だか失念)は、ヨイトマケを見たことがあると話していた。
1947年に東京で生まれたビートたけしもヨイトマケを見たことがある、とテレビで語っていた。
1950年に東京で生まれたあるタレント(これまた失念)も、ヨイトマケを見たことがない。
ということは50年生まれの子供が物心つく頃、すなわち1950年代半ばの東京でヨイトマケを見かけることはぼほなくなっていたと思われる。

東京では絶滅寸前、続けたくても続けられなかったガテン系パートタイムジョブ、それがヨイトマケ。
決してビルマのアーロン収容所かコカイン収容所で人権侵害されている真っ最中の父ちゃんのためでもないし、子供を大学にやるためでもない。思い出してメソメソするためでもない。ご近所さんとの「井戸端パート」、それが親戚なりのヨイトマケ。

美輪明宏氏の『ヨイトマケの唄』は戦後の長崎のことだろう。
歌詞の中では「汚い子供」と罵られている。ところが氏はインタビューでこう語っている。

長崎出身の美輪は東京に出て来るまで差別など知らなかったという。
「私は幼稚園でも小学校でも、肌の色や目の色が違う人たちと机を並べていたんです。つまり、韓国人や中国人であったり、二代、三代前がオランダ人、ロシア人といった家の子どもだったんですね。そういったことが、ごくごく普通で、当たり前の環境だったんです。ですから、差別なんてことがあるのだとは全然知らなくて、東京に来た時、なんて野蛮なところなんだろうと思ったんです

ダイアモンドオンライン2016.2.1佐高信の「一人一話」 より抜粋

歌詞とインタビューに矛盾がある。
つまり創作なんだ。美輪氏本人も「徹子の部屋」だか何だかで語っていたように、「ヨイトマケの唄」は創作なんだ。

創作のヒントとなった裏側には、モノホンのヨイトマケがいる。そして元ヨイトマケを親戚に持つ私がここにいて、嫌な思いひとつせずに生きている。
預かり知らぬところで3K職を押し付けたことにされている鳶職人たち。3K職を嫌々やらざるを得なかったことにされている奥さん連中。彼らや彼女らの名誉がどこか彼方に飛んでいってしまった……わけでもない。
実のところ、くだんの親戚も『ヨイトマケの唄』を聴いてウルウルしていたらしい。らしい、と言うのは私が生まれた頃にはもう存命していなかったから。
思い出美化もいいトコだよ、本当。でも、思い出美化を否定するつもりはない。その涙の裏には、それはそれで彼ら彼女らの本音のカケラが現れてるから。

ちなみに、歌詞に出てくる主人公がエンジニアになって世の中に機械化の波をもたらし、母ちゃんからヨイトマケの仕事を奪った、なんてことはあり得ない。
だって、息子が在学中と思われる1950年半ばにヨイトマケは消えてるんだもん、少なくとも東京では。ま、長崎にはあったのかも知れないけど。