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【短編小説】匂いのない光景

墓じまいに来たついでに、祖父母の家があった土地の近くまで車を進めた。
祖父母の家はわたしが学生だったうちに解体が済んでしまったけれど、すでに限界集落に近い山の半ばの村は、住む人のいなくなった木造の古い家をいくつも残している。

歳をとり右足が悪くなった母を助手席から下ろし、二人で少しだけ辺りを歩いた。
アスファルトの舗装のない白いコンクリートの細道を、支えながらゆっくり上る。小道はひび割れて、やがて草の中に途絶えた。

母がこの辺りで育った頃は、牛がいて、鶏が庭にいて、どの家も庭や畑に野菜を作る生活があったという。
母は、少し泣いていた。その目は時の向こうを覗き込んでいる。

「匂いのせんねぇ。さみしかねぇ」

ふるさとの風景が呼び起こす、五感の記憶。
その匂いを、わたしはほとんど知らない。人と生き物が共にあった、生活の匂い。肥溜の苦さが混じる、耕されたばかりの土の匂い。
ただ、乾いた空気に、草ばかりのわずかな青い匂いだけが渡っていくのが感じ取れるだけだ。

母を支えて、ゆっくりと道を戻る。
母は山の半ばの村から街へ出て、父と結婚した。わたしは匂いのしない街で育った。墓から取り出した祖父母の骨は、街中の寺にある、マンションのような納骨堂に納められる。

母は道に足を取られながらも振り返り、この村の景色を目に焼き付けようとしている。墓の改葬が済めば、母の実家のあったこの土地への縁も薄れる。それを拒むように、何度も何度も母は振り返る。

匂いのするような、わたしのふるさとはどこだろう。母が今感じている気持ちを、わたしはいつか、どこかに対して抱けるのだろうか。
せめて一枚と思い、スマートフォンのシャッターを切る。静かな光景が、データの中に記録された。


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