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長編小説 「扉」41


       父の手帳



  父の手帳による姉の遭難

 父の部屋の引き出しで見つけたデイリー手帳の数々。私はそこに挟まっていた若い母の写真を見て泣いていました。母が恋しくて泣いていたのではありません。その母の写真を、毎年手帳が変わる度に挟み直して持ち歩いていた父を、心から愛おしく思ったからです。早々と先に逝ってしまった母を愛し続けていた父を知らな過ぎた、自分の底の浅さを今更ながら痛感し、取り返しのつかない不毛な後悔をしているからです。
 写真はもう一枚あります。私の七歳のお祝いに家族四人で撮ったものです。華やかな晴れ着をまとい、この日のために幼稚園の頃から伸ばし続けた長い髪を和髪に結い上げ、うっすら紅を引いて澄ましている私の後ろに、蘇芳すおう色の着物に身を包んだにこやかな母がそっと立っています。その傍らには、小さな人形のように愛らしい弟を大事そうに抱いている、堂々とした力溢れる父が満面の笑顔で写っています。
 手帳の見開きには、既に鬼籍に入っている母を筆頭に、孫や百合ちゃんも含め、私達家族のそれぞれの誕生日、その年迎える年令が記されています。手帳をさかのぼると皆の年令が減っていく。手帳が新しくなる毎に、書き込んでいたのが分かります。父は口に出さないだけで、いつでも家族を忘れずにいたのです。蛇足ですが、河原さんの名前が登場しないのは、穏便に笑顔でいた父も、心の内では彼を倫の父親とは認めていなかったのかもしれません。
 遡った手帳には、様々な場面での喜怒哀楽も、父の視点で描かれていると思います。しかし、今私が手にしているこの手帳には、父らしからぬ弱々しい文字で、苦悩の日々が断片的に記録されていました。
 しばしば「タクミ」という三文字が登場し、彼との遭遇の記録がありました。そんな父の異変も見抜けず、父の心中を察することもしなかった私自身の愚鈍さが悔やまれます。
 自分の意思さえ持てなくなった父の諦念は、土にめり込んだ重たい石のようであったけれど、孫達がおじいちゃんを慕う姿に小さな温かさを感じていたようです。死に急ぐような身の回りの片付けを強いられていたにもかかわらず、不思議なことに、孫の勢揃いという楽しい状況を一瞬でも叶えた歩には、少なからず感謝さえしている、その恐るべきパラドックス的感情に大変驚きました。
 夏には歩と買い物をした記録がありました。新しい下着やタオルと共に、涼し気なマドラスチェックのシャツとスニーカーを新調してもらい、カフェでアイスコーヒーを飲んだとあります。これが大きな喜びに感じられていたのだと思うと胸が痛みます。私は心の中で「お父さん、買ってもらって良かったね。でもそれってお父さんの年金で買っているのよ」と、意地悪く呟きました。
 タクミと化した歩に罵られ手を出され作品を壊され、自分の息子でありながら「怖い」という感情しか持てなくなっていた。父親としての情けなさを反芻はんすうする中で、細やかな幸福感の記憶を無理に・・・作り上げようとしていたのかもしれません。
 塁の同居発言をきっかけに、タクミの出現頻度は加速していきました。作品を派手に破壊したのも、父が度々怪我をしていたのも、歩の記憶しないタクミの仕業であったのです。あの数々の怪我は、父が苦笑いで取り繕っていた、歳のせい・・・・などでは決してありませんでした。
 詐欺事件から加速した心身的苦痛で、胸の痛みと震えは頻繁に起こり、このまま心臓麻痺で幕を閉じればどんなに楽か、と父は諦めを望みにすり替える程になっていました。
 最後の日、何があったのでしょうか、記録にはありません。あの額の生々しい傷痕。たった一人で倒れ込むように逝った父は、最後まで何か口を閉ざそうとしていたような気がします。もう奥歯に挟まった物言いもプライドも詰ることが出来ません。
 また、思いがけない程強く成長していた倫に、喜びを感じると同時に事実を知られてしまったことへの羞恥、後悔、懸念なども書き添えられ、最後に「すまない」とありました。 私の入院についても「理実再発、俺が倒れるべきだ」と。あの時の済まなそうな父の表情が脳裏に蘇り苦しくなりました。
 それから書道のことでしょうか。「ダメだ、やりたくない、もう書けない」など、活力の糧であった表現・・としての書道を奪われ、それでも主人に従う飼い犬のように続けなければならないジレンマが記されていました。
 手帳を何年も遡っていくと「タクミ」が頻発している時期があり、殆どがお金の無心でした。後先考えずに幾度となく店経営の真似事をしたり、自暴自棄になる度にパチンコで借金を作り続け、その尻拭いを父が全て請け負っていたようです。
 最初は頭を下げて無心していた歩は、父が限界を告げると、ある日「タクミ」という別人格を現したのです。たとえどんなに怖くても自分の息子。この最初の段階で、何故突っぱね切らなかったのかと、父は猛後悔していたのでした。朱実に合わせる顔がないと。

 そもそも「タクミ」という人格が現れた経緯は何だったのでしょう。
 私はタクミにそっくりな歩と何度か遭遇したことがあります。歩が麻耶ちゃんとお付き合いをしている十代の頃でした。あの頃から麻耶ちゃんは天邪鬼あまのじゃくで、その讒言ざんげんを間に受けた間抜けでピュアな歩が、姉の私をバットで襲撃したのです。私達姉弟の仲の良さが気持ち悪いとの理由で、チープに創作した偽話を歩に吹き込み、私達を取り返しのつかないディープな姉弟喧嘩へと導いたのです。
 また、幼い頃から我慢を強いられていた歩には、一時いっときコウちゃんと呼んでいたイマジナリーフレンドの存在があったことは知っていました。けれど、別人格タクミが、人格として細胞分裂し始めたのは、いつ頃からだったのでしょうか。
 古い手帳には、歩が生死を彷徨った箱根の大事故のことや、繰り返す麻耶ちゃんの裏切りから、歩自身が時々暴力的になっていた様子が記されているだけでした。
 風の噂で麻耶ちゃんの出来婚を知った歩は、その苦しさから逃れる為か、私と同年のバツ一つの女性と結婚しました。彼女は怠け癖と泥棒癖と虚言癖があり、大変問題多き人でした。歩の自負する洞察力って何なのでしょうか。
 彼女との決別は、母の亡骸が病院から家に戻って来たその日に、親戚が集まる中、一人まだ寝ていた彼女をパジャマのまま家から追い出すという、歩のアクロバティックな不意打ちでした。
 その後、後腐れないようにと相当額の手切金を払ったのは、父のお金からでした。歩側が過失だらけの彼女にお金を渡すなどおかしな話ですが、時を開けずに百合ちゃんと再婚し塁が生まれたことで、お金を渡してでも彼女と早く別れたかったのだろうと推測が出来ます。考えてみればお互い様の過失です。
 百合ちゃんは初婚でしたので、歩は二度目にもかかわらず、これまた二度目の親がかりな挙式を、しかも母の逝った直後にしたのでした。父の両脛はもうかじる所はないように思われました。
 当時、婚姻せずに子を生んだ私の分まで、二度も父のお金で結婚式を挙げたのかと思うと無性にやるせなく、私の憤りは歩ではなく父に向きました。何で歩ばかり。私や倫には何もしてくれない不公平な父親だとレッテルを貼り、いつの間にか仮面父娘としての関係が定着していきました。しかし私は間違っていました。父の苦しみを理解しなさ過ぎたのです。
 訥々とつとつと記されている手帳の内容に、私は時を忘れ没頭していました。
 壮絶な最期を遂げた母の記録や、その母へのリスペクト。書道への惜しみない情熱と書道会の愚痴。母の病と歩の不登校問題で、美大生活を断念せざるを得なかった私への謝罪や私の婚外出産。私達姉弟が疑惑視していた香世子のことなど。父の本音の密林に埋没していきました。

 あっという間に一日が過ぎていて、気付くと朝食しか摂っていないことに気付きました。父の記憶の樹海に遭難してしまった私には、現実に戻るきっかけが必要でした。それは夜遅く帰宅した「ただいま」という倫の声でした。



つづく




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