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長編小説 「扉」39


       姉弟対決再び 三


 四十九日の法要が迫っていた。
 父の保険証書の件について、姉から信じ難い回答が返ってきた。解約済みであったというのだ。父の死亡保険は倫の学資保険同様、の葉の金の如く幻になっていたというのである。疑わしきは、父の通帳にはギリギリまで保険料の引き落としの証拠がある。だが、解約の事実を確認出来るすべは私にはない。この後に及んでの、父の私に対する最後の嫌がらせのじゅつかと思った。
 ところがこれは、姉が私にいた巧妙な嘘だったのである。保険金は姉の口座に振り込まれた。百万に満たない額ではあるが、姉は父が倫のために使えと言って手渡してくれたことを遺言、、と都合良く解釈し、私に全額奪われるのを阻止したのである。そんな姉の奸計かんけいを知る由もなかった可哀想な私は途方に暮れた。
 町子は祥子を従え、頻繁に線香をあげに我が家を訪れるのだが、真の目的は葬儀費用の返済を迫っているのである。私は、最早存在しない父の保険金が下りたら、と嘯き続けているのだが、それもいつまで通用するのか。迫る町子に、私は苦肉の策を絞り出した。
「理実から返してもらって下さい、彼女が受取人だから」
 まるで保険金が健在であるかのように、こちらも大嘘をいた訳である。これで姉弟対決は今の所五分五分フィフティフィフティである。むしろ返済義務が姉にすり替わった分、こちらの方が分が良いであろう。
 真っ向対立の潔さとは程遠い、嫌らしく相手の腹を探り合うという我々仮面姉弟は、父の四十九日の法要に向けて白々しく協力し合った。

 法要当日は爽やかな気候であった。僧侶の読経と共に、父の遺骨は冷たい石の下に安置された。これからは母と共に心置きなく眠るのであろうか、最後の嫌がらせの如き残酷な負の遺産を残して。
 姉が想像するより遥かに豪華な法要後の会食を、父のゴルフ仲間が経営する和食屋で催した。その席で親戚一同を前にして、ついに私は父の事件のカミングアウトを決心したのである。結婚式場やリゾートホテルなど、接客のプロを経験してきた私にあるまじき震えが、爪先から髪の先まで隈なく拡がり、前に組んだ手と唇が見た目にも大きく震え、立っているのが不思議な程に膝も震えていた。ガクガクと噛み合わず、上手く言葉を発せない中で、隣に座る仮面姉が察して立ち上がり、私の背中に掌を置いて、「しっかりアユ坊」と囁いた。
 私は震え掠れた声で、父の事件を知らぬ親戚一同に、その禍々まがまがしい現実を語り、底知れぬ負の遺産を抱えてしまったことを告白した。そして、この四十九日が親戚を呼べる最初で最後の法要になるであろうと告げた。潮時だと思ったのである。これ以上見栄を張り続けるのは不可能だと、自分に負けを認めさせたのだ。
 一同は静まり返り、それぞれが帰り際に私に激励をしていく。昔、幼き居候の私をいじめた火傷の義叔母が、偽善に満ちた同情の言葉をいて行く。惨めだ。悔しかった。そう、カミングアウトは失敗したのだ。多額の負債を抱えていると分かった瞬間、その場の空気が一変し、その後付き合いを絶った親戚がほとんどだった。人生、実にドブに捨てたものである。
 法要後、我が家に一緒に戻ってきたのは町子、祥子、保行の実兄弟と姉である。
 保行は中嶋の祖父に似て非常に酒好きであり、かなり酔っていた。
「兄貴はこの家にもう居ないんだなあ。寂しいよなあ歩君。理実ちゃん一緒に住んでやれば良いじゃない」
 無責任な他人事を軽く言う。
「叔父さん、父が死んだ今、不動産担保のこの家、手放さなくてはならないかもしれないんです」
「いくら借りてるんだい」
「五百万借りてちょうど十二ヶ月。百二十万を返したから、あと三百八十万……です、利息は別で」
「三百八十かあ」
 町子が保行を肘で小突き、目でダメダメ合図を送る。
「だけどさあ、兄貴の家、残してやりたいじゃん。例えば俺がこの家を買ってやって、その金で借金を返す。それで歩君が家賃を俺に払って住む。良い考えだろう」
 目から鱗である。頭に天窓が開いたようだ。今迄、祖父母の葬式で以外会ったことの殆どなかった叔父であるが、その蜘蛛の糸が降ろされる期待に胸が膨らみ、涙が出そうであった。
 すると今度は姉が私を小突き、目でダメダメ合図を送る。何なんだよ、わずらわしいしダメダメの意味が分からない。実は姉はこの叔父が嫌いなのだ。父に似て優しそうな風貌の裏の闇を、幼くして知っていた姉の左腕には、保行に押し付けられた煙草による火傷の引き攣れが、今も残っている。その叔父への嫌悪感が姉には強く残っているのだ。だが、私には関係ないことである。私は藁に、いや蜘蛛の糸に縋る思いで、
「そうして貰えたら非常に助かります」と、勢い良く頭を下げた。
「ちょっと考えておくよ、カミさんに相談してからね」
 私の身体は、今度は全身期待に震えていた。忙しいことである。これで不動産担保の借金を返すことが出来るかも知れない。家がそのまま残るなら名義が保行でも良いではないか。そこへ町子が水を差す。
「その前に、道央の葬儀代はいつ返してくれるんだい。保険金は下りた? 理実ちゃん」
「え?」
 町子の不意打ちに姉がたじろぐ。
「受取人が理実ちゃんだって歩君が言うからさ。いつ返してくれるのかな」
「あれは既に父が解約していて……」
「ええ! 何よそれ。返してもらわないと家中でうるさいんだよ。何とかしてよ理実ちゃん」
「何で私……」
 何だか混乱が満ち満ちてきた。姉が不審の眼差しをこちらに向けたのが感じられたが、目は合わせない。この場で混乱に参加していないのは、居眠りをしている祥子だけである。そこへ、救世主候補の保行が、私を大船に乗せる勢いで言った。
「わかったわかった、今日はもう終わり。歩君、また連絡するからね。ああ、そうだ。葬式の日に頼まれた兄貴の車、知り合いに十万で売れたから。後で持ってくるよ」
 助かった。これで法要費用の補填が出来る。
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げ、これから歩いて町子宅に向かう三人を見送った。人生捨てたものでもないのかも知れぬ。
 三人に引き続き、姉も帰宅準備をしている。町子の保険金発言について何故か言及しない姉に、こちらも不信感を募らせる。
「サト姉、もう帰るの」
「倫が先に帰っているからね。夕飯の仕度があるから。それと頼まれていた喪中葉書、もうすぐここに届く筈だから」
「ふーん……サト姉、俺に幾つか嘘いているだろう」
「そんな訳ないじゃない、アユ坊こそ」
「まあいいや、保行叔父さんに期待しよう」
「……糠喜びよ」
「何?」
「叔父さん酔っていたし、現実味がない、口先だけっていうこと」
 姉は玄関で靴を履きながら、
「いずれにせよ、私は遺産放棄しますから」
 そう言い残し帰って行った。
 そうだ、遺産放棄だ。姉が放棄しないと家の相続に手間取るところであった。保行からの連絡が待ち遠しい。



 それからいくら待っても保行からの連絡は来ないどころか、父の車の十万円は町子の元にスライドしていたのである。悔しいが姉の正解は認めざるを得ない。
 姉の元には町子と保行からの着信がひっきりなしであった。要件は葬儀費用の督促と、それ以前にさかのぼる父の借金の返済にまで及んでいたという。姉は突如降りかかった新たなる大災難から逃げ切ることが出来ない。
「あたしはね、何年も前から道央にたくさん貸しているんだよ。それがまだ返し切らないうちに葬儀だよ。返して貰わないと家中で、このあたしが責められるんだよ」
 町子の当然の訴えによる精神的苦痛に観念した姉は、保険金の存在はあくまでも隠した上で、その大半を断腸の思いで町子に手渡したようだ。しかし、葬儀費用に満たないことは承知の上。残りの督促に、再び町子が私の元に登場したのは当然の成り行きである。町子には、年内に賠償金の一部が支払われる予定だからと納得して貰うことに何とか成功した。
 許せないのは姉である。
 結果的には私の思惑通り、保険金は葬儀費用に姿を変えた。そして、姉が町子に手渡せる金を持っていた事実は、保険金の存在を物語っていた。姑息な嘘で私の目を眩まそうとしても無駄であるのに。
 尻に火が着いたように姉のアパートに向かう。着火したのは尻ではなく怒りであるが。
 呼び鈴を鳴らす。反応がない。もう一度、もう一度。ドアに耳を当てる。ドアの向こうの息を殺す気配を感じる。だからドアを叩く、叩く、叩く。鉄筋コンクリートのアパートでは、この音は近所中に響き渡る。チェーンをのろのろと外す音が聞こえ、細くドアが開く。ノブを左手で思い切り引き右足を滑り込ませる。
「アユ坊……どうしたの、怖い顔して」
「おまえ嘘つきだな、何で居るのに出て来ないんだよ」
「……歩?」
「忘れちゃったの、お姉さん。三尋木巧です。お姉さんは嘘つきだなあ。歩が困っていましたよ。親父さんの保険金、本当はあったんでしょう? 白状しちゃいなよ」
「保険なんて知らないわよ」
「お姉さん、まだわからないの? 親父さんの家を守るために、あいつ本当に頑張ってるんだ。困っているんだよ」
「無理言わないでよ。それに、あなたは巧じゃなくて……歩よ!」
「そっちこそ何言ってるんだ、可愛い弟と見間違えるなんて、余程目が悪いのか頭が悪いのか」
 理実が下駄箱の上に伏せてあった鏡をオレに向けた。
「よく見なさいよ、自分の顔を」
 鏡に映った歩とそっくりな青白い顔。髪が耳の上で清潔に切り揃えてある。事故の時の顔面骨折で少しいびつになっている右頬……。気持ちが悪い、吐きそうだ。失神寸前でアパートの階段をふらつきながら降りる。

 気が付くと私は、海沿いのパーキングエリアでシートを倒し眠っていた。寒い。何故こんな所で薄着のまま寝ていたのか。姉のアパートに向かっていたつもりだったが。まあいい、自販機のうどんで温まって明日出直すことにしよう。



つづく






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