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Well Jiing !! 第4章、お葬式のニーズ(前書き)

市民の数だけ存在するニーズの中で、お寺はどのような市民ニーズに応えていけるのか、死から生までのアプローチを少しずつ考えていければと思います。
 
第3章では一例として、「自分が死んだ時のニーズ」「独居死しないニーズ」「誤嚥性肺炎にならないニーズ」を取り上げてみました。「死」に関するアプローチは、何もお葬式だけではないという発想を持っていただければと思うからです。第4章では、シンプルにお葬式のニーズについて考えてみたいと思います。
 
第4章、お葬式のニーズ(前書き)
~お寺には葬儀布施収入以外の可能性も~

ワカラナイ不安に応えるニーズ

死の前後のことを相談できるお寺が近くにあると近隣住民は安心です。不安が減れば、これからの家族等の終末期の貴重な時間に集中できます。
ここで大切なことは、葬儀という儀式のことだけではない、死の前後の領域をカバーできる窓口であることだと思います。
 
今、付き合いのないお寺にお葬式の相談をする人はどれくらいいらっしゃるでしょうか?統計をとったわけではないので正確なことはわかりませんが、あまり多くはない、ということは言えると考えています。なぜなら、亡くなったあと、まず葬儀社に電話をするのはという認識を持っている市民が多いと言えるからです。
 
お葬式でワカラナイ不安を4つに大別してみます。
(1)今、何をしておけばよいのか
(2)いざというとき、どうしたらよいのか
(3)結局、何をどう考えればよいのか
(4)そして、いくら用意すればよいのか
 
葬儀社に事前相談をすれば、(1)〜(4)に対して、事前見積を作成する過程でそれぞれ具体的に答えてくれると思います。
しかしお寺への相談の場合、全てをお寺としては答えられない可能性があります。
 
例えば、
(1)「今何をしておけばよいですか?」という質問に対して、「葬儀社さんを決めておいてください」かもしれませんし、(2)「いざというとき、どうしたらよいのか?」という質問に対しては、やはり「提携の葬儀者の番号をお知らせしますので、そこに電話してください」という対応も想像されます。
次の(3)はお寺の法式などで対応できる。
しかしまた最後に、(4)「いくら用意すればよいのか?」に対してはどうでしょうか?「お布施はお志で結構です。葬儀社の費用は直接確認してみてください」となりうる。
そうなると、お寺より多くのことに答えてくれる「葬儀社」に聞いた方がよさそうだ、という印象を相談者は感じるかもしれません。
 
こうしてみてみると、お寺の専門領域は「法式」と認識され、その結果、お葬式の相談先を葬儀社に譲ってきたとも言えるのではないか?とも考えられます。
 
全国各地には、自ら葬儀社同様の取り組みをされているお寺もあり、その取り組みへのエネルギーや行動はとても尊敬しています。そのようなお寺のある地域住民は安心を覚えることでしょう。
 
今後、より多くのお寺がお葬式の一次相談窓口となれば、より多くの市民が安心を覚えることにつながります。各地で湧き出す泉のように、お寺に相談をしやすい仕組みを作れないか?と思案しています。

葬儀のお布施をどう考えていくか

~短期的な貨幣価値を追わないお寺は喜ばれる~
 
檀家以外の方のお葬式で読経したり授戒したり、式場として使っていただく。その時、お布施をどう考えていくかは考察の余地があります。
例えばお葬式のときお布施は10~30〜50〜100〜万円と幅広く、お寺と檀家さんとの状況でも異なる対応がなされるものと思います。
 
ここで、これを読んでいただいている「ご住職」に質問です。
 
「10年後も、今と同じくらいの布施収入を継続できそうですか?」
 
お付き合いのある住職に、次のような提案をしたことがあります。
「今のお布施の仕組みは、お葬式のときの負担が大きいので、納められる額を継続的に布施していただく方法はどうでしょうか?例えば月3千円を布施していただく。お亡くなりになられた時も、お布施の総額によらず、平等に葬儀の対応をできないか?」と。

月3千円は、年間3万6千円。10年で36万円です。
 
そのときの住職の回答は、
「これまで檀家さんからはお葬式の際に80万円ほど納めて頂いていて、それが大きな布施収入。それが減る可能性がある方法を今行うことは難しいかもしれない…。」と。
 
そのお寺は檀家数300余、年間で10件ほどのお葬式を勤めます。
住職の生活のみならず、修繕の積立を考えると布施収入は重要ですから、その判断は尊重すべきものです。今お寺が傾いたら、将来的に困るのは檀家さんだからです。
 
「では、何に対して布施をするのか?」
「もとい、何のために布施をするのでしょうか?」

本来、布施は、貨幣以外の様々な内容を含むと認識しています。
そしてその対象は、自分のための「与える」行為?
 
稚拙な例え話ですが、寒い日に、裸の人を捕まえて仏教を伝えられるでしょうか?

「寒いでしょうからこの衣をどうぞ」
「ありがとう。あなたはどなたですか?」
「あそこのお寺の者です」
「ありがとうございました。今度お礼に参ります」

このような「与える」やりとりがあって初めて、何かが始まるのかもしれなません。
この場合その発端は、住職が服を与えたことです。
 
「布施収入」という言葉は、どこか矛盾が内包されている気がします。与える事と頂く事が1セットになりえるからです。本来はそれぞれが与えることで、同じシーソーではないのではないか。
 
そう考えるとやはり「お葬式の布施収入」には、一考の余地がある気がやはりしてしまうのです。
 
護持という視点での不安がお寺にあることは承知しています。そして僭越ながらその不安を解消する方法の一つは、与える行為なのではないかと。
無責任に聞こえるかもしれませんが、シンプルにやはり思うのです。
 
それぞれが与える行為には、タイムラグもある。そのため、仮に今のお寺は厳しくとも、その次の世代のお寺は人から与えられることが多くなっている、かもしれないと。

Z世代の台頭や世の中の変化と付合い続けるお寺であってほしい

 今の時代には、クラウドファンディングという手法も根付きはじめ、応援したいコトやモノに対して支援を集う成功例も出てきました。
 
1998年生まれ等の若い世代はZ世代というそうですが、Z世代はSNSを身近に育ちました。2023年春には四年生大学を卒学し、就職し社会人になるZ世代が増えます。就職活動においても「給与より社会貢献」を重視されるなどの傾向があるそうです。お寺はZ世代とどう関わっていくのでしょうか。

また、定年退職後などのシニア層も多くいらっしゃる。隙間時間を提供するサービスや、ボランティア活動をされる方もいらっしゃる。
世の中が変わってきています。
 
因果の「因」をお寺がまず行うことに期待したいと思います。
お葬式にあたり、お寺が与えられることを、次章以降、もう少し具体例を挙げて考えていきたいと思います。

長文お読みいただき、ありがとうございました。

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