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不可解な不正入学~時代の遺物となる「汚職と強欲の文化」~

 少し前になりますが、日経電子版に【一流大への不正入学関与、米セレブ数十人を起訴】という記事が出ていました。この手の記事、事件に接していつも思うのは、「何で、多額のお金を払ってまで、自ら『不幸』を買おうとするのだろう?」という疑問です。

 不正入学をしていいことは、何一つあろうはずがありません。不正入学のような行為は、公正な競争を原理とした現代社会への明らかな裏切り行為であり、場合によっては刑事責任を問われかねないものです。そして、何よりも、不正入学の最大の被害者は子どもである、という事です。それは、子どもの立場に立って考えれば明白だと思われます。



 記事では、このような不正入学の構造を、手厳しく「汚職と強欲の文化」と、一刀両断に切り捨てています。『欲』自体には善も悪もなく、人間の行動の原動力としてなくてはならないものですが、『欲しいものを手に入れる為にはどんな手でも使う』強欲となると、話は違ってきます。

 この『強欲』という構造には、二つの短絡的な思考が絡んでいるのではないでしょうか。一つは、『欲しいものを手に入れるのに、不正な手段を使っても良い』という思考回路であり、もう一つは、『欲しいものを手に入れれば、それだけで幸福を手に入れられる』という思考回路です。

 第一の思考回路は、不正な手段を使うと自分自身や欲しいと思っていたものを汚すことになる、という現実が欠落している点で短絡的であり、第二の思考回路は、欲しいものを手に入れたその後が肝心である、という現実が欠落している点で短絡的なのです。

 犯罪のリスクを冒してまで不正入学に手を染めても、自身を貶めるだけであり、入学しただけで『幸福』を得られる保証は何もありません。


 このような「汚職と強欲の文化」は、一面で、つい最近まで続いていた組織が万能であった時代の遺物であるとも言えます。そのような、特定の組織に属してしまえば大丈夫という『寄らば大樹の陰』的な考え方は、組織の中での個人の比重が高まり、個人の主体的な活躍が求められる第4次産業革命の時代には通用しえないものなのです。

 自己中心的な「汚職と強欲の文化」には、他者の幸福が自己の幸福となるイノベーションのエコシステムの中に占める場所はない、と考えた方が良さそうです。



(追記:第4次産業革命の時代の組織と個人の関係については、下記の拙稿などで考察しています。)



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