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自己有用感の飢餓

自己有用感の飢餓に操られないために
自分自身で自己を評価し自分を肯定する「自尊感情」や「自己肯定感」と違い、自己有用感はあくまで他者によって自分が評価されることだ。それは自分の存在が周りの人に役立っている、自分の行為を誰かに喜んでもらえたことがわかったときに生まれる感情だ。

例えば会社の同僚に「ありがとう」と言われた、親や先生に褒められた、仕事で上司に高く評価をされ表彰された、組織の一員として受け入れられた、SNSでいいね!をたくさんもらった、といった具合に、自分が自分以外の誰かに貢献しているとか、存在意義を認めてもらえていると言う意識なしには生まれてこない。まぁ、他者の評価をどう受け止めるのかと言う主観ではあるとしても(その自己有用感が勘違いだったという場合もあるかも知れないが)、他者からの評価や注目、そして認知や受け入れを強く感じたことで、脳の報酬回路が活性化されるため、その麻薬のような中毒性が「自己有用感の飢餓」を誘発する。

悲しいことに「自己有用感の飢餓」を満たすために私たちは何でもしたくなり、まるで自己有用感に操られ支配されているかのようなのだ。仕事や勉学に精を出すのも、衣服や化粧や身だしなみで容姿を整えるのも、自分へのご褒美も、車を買ったり、旅行をしたり、家を建てたりするのも、小説を書いたり絵を描いたり、芸術家や職人が作品を創り出すのも、そしてブログやSNSで発信をするのも、すべてがそうだと断じるつもりはないけれど、私たちは自己有用感に思うがままに操られているからかも知れない。いや、自己有用感を感じることこそ「充実した人生だ」と勘違いしているのかも知れない。

もちろん自己有用感がなければ、自己肯定感も自尊感情も生まれにくく、相手を思いやる気持ちや、他者との絆を感じて助け合い、ボランティアなどの社会貢献活動への参加もままならず、一人では生きていけない人間にとっては、車のガソリンのようになくてはならないものだろう。だから自己有用感なんてくそ食らえとか、自己有用感なんて捨ててしまえと言っているわけではなく、それが必要なときと場所があるのは否定しない。私だって、こうした記事を書いているのは自己有用感のなせる技なのかも知れないからだ。

しかし、自己有用感は生きる目的ではなく、生きていくための燃料でしかなく、自己有用感のために人生を浪費して、犠牲にするのは本末転倒だ。

自尊感情や自己肯定感と言った「自分を大切に思うこと」は必要なのだが、自己有用感によってしか、自分の価値を感じられないとしたら、自己有用感に簡単に足元をすくわれてしまうかも知れない。

もしも他者の誰かが私たちの自己有用感の飢餓に目をつけて、自己有用感を餌に私たちを思うがままに操ろうとするかもしれない。その誰かが言葉巧みに、私たちの自己有用感を満たすことと引き換えに、その誰かの利益になることを搾取するかも知れないのだ。

「自分を有用だと思う」こと以上に、誰か他者を有用だと重要だと大切に思う気持ち、私自身を有用だと誰かに想ってもらうのではなく、自分以外の誰かを皆が必要だとみてもらえるように行動できればいいなと思う。しかも他者を有用であると大切に思うことでの駆け引きや見返りを求めない気持ち、もはやそれは愛なのだろうが、自己有用感に溺れるよりも、愛に溺れたほうが私は自分が幸せだと想うのだ。あくまで私見ね。

自己有用感の飢餓に操られないために何ができるだろうか?
 1)謙虚になる(別記事にリンク)
 2)見返りを求めない愛を育む
 3)他人の評価よりも自分の成長に動機をおく
 4)自分よりも他者こそが有用で価値があることを見出す
 5)最初の「1)謙虚になる」に戻って、これを繰り返す

おしまい

ここ以外にも、日経で連載記事を書いていますので、ご笑覧を


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