「人を動かす」ことを超えた場所で
こんにちは、清水です☀️
昔、といっても1年前ぐらいのことですが、日々つけている『日記』にこんなことを書いています。
少し前まで僕は、こんな問題を抱えていました、、
詳しくはとても個人的なこと、それもとても深いレベルのことなので、いちいち説明しませんが、誰しもが自分の内側にいろんな"苦しみ"を抱えているように、僕もこれまで大小たくさんの問題に直面し、そして本当に”自由”になっていくためにそれと向き合ってきました。
その中の1つとして、こういうのがあったわけです。
当時、僕は「激流」の最中にいました。
その様子はこの記事に書きましたが、それまで幾度となく感じていた課題が、人生のステージの変わり目に際して、かなりの強度をもって、僕のまえに避けがたく浮かび上がってきていたのです‥
「自分の内側にある”問題”は、それを解消するまで、何度でもさまざまな形を伴って、僕らのまえに現れる。」
この事実を前に、僕はどうにもならない苦しい感情にさらされながらも(w)、「今、これを本当に終わらせるとき」と、感情に飲み込まれることなく、それをやり遂げることを決めました‥!
いわゆる癒しや手放し、浄化、セラピーやヒーリング、自己変容といったことは、取り組んだその時にすぐ問題が”解消”することもあるとは思いますが、たいていはある程度の幅をもったプロセスを経て、しかも一直線にではなく、複数のことがあれこれ関連しあいながら、表層から深層へと徐々に変容が起こり、あるとき「あぁ、これでこのことはひとまず”完了”した‥」と実感できるようなところまで来る、というのが普通かなと思います(^^)
今回のことに関しても、自分の内にあるものに対峙することになった出来事から、時間をかけて、いろいろなことを経ながら、段階的に”事”は進みました。
(というか、一時は、自分がこの問題に取り組んでいたということすらも、すっかり忘れてたりしました。笑)
だから、この手のことは「すぐに成果を手に入れよう」と結果にこだわらないで、日々やることがたくさんある中で、きちんとその”尻尾”をつかまえておきつつ、色々なことをおおらかに同時並行で進めていく。
そうすれば必ず、必要なことが、必要なタイミングで起こったり、明らかになったりして、最終的にちゃんと”完了”させることができる。
そんなふうにおおらかに構え、そのことに信頼できていれば、”楽”かなと思っています(^^)
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さて、そんな一連のプロセスのなかで、とても印象的だった出来事を、1つ具体的に書いておきたいと思います。
僕が上に書いた”問題”をクリアにする過程で、はじめは自分にべったりとくっついていて、その時の自分自身を形づくっていたものが、「この瞬間に、ベリベリっと剥がれ落ち、自分の外に出ていったと思えた」という時のことです。
SNS上で、ある知り合いの方の投稿が流れてきました。
そして、それを見た瞬間に、これまで自分が取り組んできた「自分のことを説明し、アピールしようとせずにはいられない」感じが、バイバイ〜と自分から離れ、”外”へと出ていったのです。
そして自分のなかで、色々なことが明確なことばに結晶化し、こんなふうに『日記』に書きました。
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ひとくちに「自分で自分をアピールする」といっても、色々あると思います。
”飾る”ことが別に悪いわけではなく、それが自分の世界の1つの表現であれば最高ですし、”自慢”することがエンタメになっていれば、それも気持ちいい(笑)
自分のなかで「消化」されたセルフアピールなら、それはある意味”喋らない”ことと同じですし、どうにもならない感情のままに”振り切れる”のも、心揺さぶる1つの生き様です。
でも、僕が経験していたのは、「まわりが自分に注目しない」というシチュエーションや「自分のやっていることが人に届かない」という現実を前に、ジレンマや苛立ちをおぼえ、どうにか「『自分がやっていること』を相手にわからせたい」と思わずにはいられない。そして、そのために「自分で自分をセルフアピール」してしまうという反応でした。
自分でそうしようと思って発するアピールではなく、心のどこかで「それは本意ではない」と感じていながら、自分の内側にあるものが、自分にそうさせてしまうという感覚。
それが”問題”だったんです。
もちろんこれは、自分のなかの深いところに根をはっている問題で、頭でいろんなことが分かっていたとしても、自分(のあり方)が根本的に変わらない限り、こういった感情的な反応は、簡単にはなくなりません。
でも、「すべての”問題”は、それを解消するべく表に現れてくる。」
たとえその場の感情や反応がどうにもならなくても、それに「気づいている」だけで、確実に自分の内側は変わっていきますし、頭で「今、何が起こっているのか」を理解することも、自分が体験してることを少しでも”外側”から捉えられるようにしてくれることで、自分自身を着実に変容させていきます。
こういったことを地道に何年も何年もやってきた僕は(笑)、今回のことも、いざ日常のなかでそういうことが起こった時に、「あ、来たぞ、起こったぞ」と気づきながら、いま目の前で展開している体験をくぐり抜けて‥ といったことを意識的に続けていきました。
そして振り返れば本当に色んなことがありましたが、徐々に、
「人が自分のことを見ても見なくても、どっちでもOK!」
という”感じ”が、近づいてきていた。
そこに、上に書いたSNSがパッと目の前に現れて、その瞬間「あ、もう大丈夫だ、自分のことを”証明”しなくても」、「仮に誰にも届かなくても、そのことと自分とは関係ない」という感覚が、スッと肚に落ちてきたのです。
そのときの感覚は今でも思い出せるのですが、自分(のあり方)が根本的に変わったんだという事実を「体感」をもって感じた瞬間として、とても印象的でしたし、1つの大事なポイントだったと思います(^^)
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いま思えば、「人を動かす」ということに関して、僕はもともと少し敏感でした。
どんなに立派なことを言ったりやったりしている人でも、本当の意味で、人のことを”自由”にできる人はなかなかいないという現実を痛感してきました。
そのことに長く苦しんできたし、僕自身、自分が抱えているいろいろな苦しさから人のことを自由にすることができず、周りを苦しめてきた。
たいていはとても素晴らしく”いい”人だったりするので、難しい部分もありますが、無意識に自分を”コントロール”してくるようなところがある人からは距離をとったりしながら、自分が経験する日々の出来事や状況を通して、自分自身を徹底的に見つめ向き合うことで、そんな連鎖から「自由」になっていくことをこれまでやってきた。
まだ途上ではあっても、
そのことには、胸を張れる自分がいます(^^)笑
人を動かすことには、大きく2つの種類があると思います。
・相手に働きかけて、他人を動かす。
・相手の心に何かが届き、その人自身が動く。
どちらも結果として人が動くとしても、1つ目は文字どおり「相手を動かしている」。でも2つ目は、本人が「自分で動いている」。
人を動かしているものが、外側のものか、内側のものか。
そういう意味でこの2つはまったく性質の違う、”正反対”のものです。
僕には、今の世の中は、おおざっぱに言えば1つ目、つまり「外発的な文明」に見えます。
教育システムにしてもそう、エネルギー技術にしてもそう、政治にしてもそう。
すべての根底に、こういう”枠組み”(パラダイム)がある。
健康(からだ)に対する従来のアプローチもそうですし、もちろん僕たち、個々人のあり方もそうです。
社会というのは、個人と個人や、組織と組織、また国や国といった「人」が互いに関わりあうところですが、お互いがお互いに影響しあい、関係しあい、すべてが不可分に動いていく「場」にあって、それぞれのプレイヤーがどういうあり方で、その場に立っているか。
それがこの世界の”色あい”を、殺伐とした灰色にも、明るくあたたかみのある橙色にも変えると思います!
よく日本(人)は、欧米などと比べて、交渉や外交力に欠けていると言われます。事実、そうだと思いますし、それによって現実として自らを守れていない面も多々あると思います。
そういう現実を前に、世間では(欧米的な)コミュニケーション能力の育成を掲げるかもしれません。でも、僕には「交渉や外交をしない」という、1つの”積極的な”あり方があるのではないかと思います。
個人としても、企業としても。
あるいは、地域や自治体としても、国としても。
もし「その道を自分で選んでいる」という主体的な意志が、そこにしっかりとあれば、自分に有利なように状況をコントロールしようと働きかけてくる他者と対したとしても、何も動かずに、自分を”守る”ことができるわけです。
そしてより積極的に、そのあり方(佇まい)が、まわりへと伝播し、「相手が動く」ことにもなるのではないでしょうか。
その感覚が、当たり前に通じるものとして一定程度「共有」されるようにならないと、社会としてそれが体現されることはなかなか難しいですが(笑)、おそらくそれが、いわゆる「日本的」なあり方なんだと思います(^^)
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文明論のようなところまで話がいってしまいましたが(笑)、個人や家庭のことでも、社会や地球規模のことでも、話はまったく同じです。
要するに、自分(や組織)が何かをするときに、無意識であれ戦略的であれ、そこに「相手を動かそう」という意図があるか、それとも自分自身に立って「相手にすべてを委ねる」ことができているかどうか。
僕は、このことに「自分の活動をまわりに広げる」という、なんでもない日常のことを通して、直面したということです。
どんなことであっても、その人が(いつかは)向き合うべきことは、日々のことに何かしらの”問題”となって現れてくる。
言いかえればそれは、そこを超えた先の自分(=世界)に入るための「門」です!
自分が抱えてる”問題”をわざわざ探すことはないですが、現れてしまったものはしょうがない(笑)
そのときに、その出来事や状況のなかに置かれている自分として、この人がああでこうで‥ と「自分のまわりの世界」を話題にして、日々の忙しい時間の流れのなかに流れるままに終わらせてしまうか、それとも、そこで露わになった「自分の反応や感情」などを見つめることを通じて、自分の内側にアクセスすることができるかどうか。
幸いにも、僕は、家族をはじめとする色々な人に助けられながら、誰に言われるでもなく始めた、いつでもどこでも1人でできる『日記』という単純なツールを中核にして、その「意識的に生きる」という作業をコツコツとやり続け、今回の大問題についても(笑)、上に書いたようになんとか”別れ”を告げていくことができました。
そんなふうにして一定程度、このことを”完了”させる一歩手前のところまで来ることができたわけです(^^)
何か、自分のなかで絡みに絡み、歪みに歪んでどうにもならなくなってしまっていたものがスルスル〜とほどけ、たなびく風船のひものように空へと飛んでいった。
そして自分の内側から、本来の純粋さがよりくっきりと顔を出してくることができた。
そんな感じがしています(^^)
このことは、とても大きなことでした。
1人の個人としても、この人生をまっとうできるかどうか(生きるか死ぬか)に関わるような死活問題でしたし(笑)、上で少し触れたように、これは個人としてのあり方の先に、とても大きな広がりを見せる可能性を秘めているような話でもあるからです!
ちなみに、さっき「完了する一歩手前」と書いたのに気づいたでしょうか?(笑)
実はこの話には、とても短い、でもかなり大きな”続き”があり、この記事に書いたことの延長線上に、つい先日、面白いことがあったので、それについてはまた次回書きたいと思います(^^)
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読んでいただいてありがとうございます!
インスタグラム(@atsmz33)などもやっています
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!これからも、いい記事を届けていけるよう励みたいと思います🤗⤴︎