加古坂神社の”住人”が教えてくれたこと
こんにちは、清水です☀️
ちょっと前に、「人を動かすこと」に焦点をあてた記事を書きました。
なんとなく書き始めた記事だったのですが、書いているうちに、実はこれは「書かなければいけない」記事だったということが徐々にわかってきました。
そこで言葉に結実していったことが、「自分の中心に立つ」こと、ひいては「自然やこの《世界》とつながる」ことに直結する、とても大切なことだったからです。
”入り口”は、ごく個人的な問題なのですが、その先には必ず普遍的なことが広がっているということを、改めて実感したりします(^^)
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さて、上の記事の終わりに書いたように、僕がそれまで抱えていた「人に自分のことを理解させようとせずにはいられない」という問題を解消するプロセスの"最後"に、思いもかけないことが待ち受けていた、というのが今回の内容です☀️
ある日、近くの神社に行ったときのことです。
いま僕が住んでいる山中湖から、静岡県側へと越える籠坂峠のてっぺんにある「加古坂神社」というところです。
藤原光親という、菅原道真・日野俊基とならんで「日本三大学問の神」とされる、平安末期から鎌倉初期にかけての公卿(の御霊)を主祭神とする神社で、風神が合祀されているので、この神社のことを「風神社」といったりもするようです。
調べてみると、藤原光親は、日本の歴史において鎌倉時代という「武士による全国的な統治」が生じることを決定づけた、1221年「承久の乱」という一大事件で、鎌倉で実権を握っていた北条義時の討伐を企てた、後鳥羽上皇の側近中の側近だった人物とのこと。
決起をはやる上皇を諌めて”止めよう”と動くも、聞き入れられず、止むを得ず義時追討の院宣を書いたということらしいのですが、その運動の中心人物として北条方に捕えられ、この籠坂の地で処刑されたということで、すぐ近くにある墓所とあわせて、ここに祀られているというのが背景でした。
本殿にお参りし、ひと呼吸をおいて、境内に静かに立っていると、ふとある場所が気になりました。
境内のある部分だけが、こんもり膨らんでいて、何となくそこが気になったのです。
ちなみに、この神社に来たのは今回が2度目。
前にお参りした時は、本殿の裏側に山のなかへと通じているような小道があり、どうなってるのかとそこを少し登っていって、この場所には気がつきませんでした。
こんもりとしているところのてっぺんに、木が並んで2本立っていました。
文字どおり「立っている」ように見えます(笑)
何となく、「あぁ、この木か‥」と思い、その”足もと”に立って、両手をそれぞれの木の幹に合わせました。
そうしているとすぐに、「わたしはあなた。あなたはわたし。」と、心のなかで繰り返している自分に気がつきました。
「木の声を聴きたい」という思いがあってのことではあったんですけど、こういうことを唱えることはこれまでに一度も無かったし、”作法”としてこうするといいよなんてことを本やネットなどで読んだことがあったわけでもなかった。
ただ何となく自然に、そうするといい感じがして、気づけばそうしていたという感じでした。
そうして、次の瞬間。
自分の内(なか)に、こんな言葉が浮かび上がりました。
ちなみに僕は、普段からこんなふうに”声”を聴いたりするタイプではありません。でもこの時はなぜか珍しく(笑)、こんなふうにはっきりと言葉が聴こえました。
そして、「腑におちる」という言葉のとおり、言葉として知っている/頭ではわかっているというところを超えて、カラダにそれがスッと入ってきた、そういう感覚がありました。
「あぁ‥そういうことだ」
色々なことが、すべてハッキリとわかったような気がしました。
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かつて僕は、自分のことも周りのことも何もわからなくなるぐらい、身も心も絶望的な状態に陥っていたのですが(w)、ある頃から、生まれてはじめて自分の胸のあたりに自分という存在の感覚を感じられるようになってきてから、いつでも、何をしている時でも、できる限り「自分の中心」に居つづけられるように心がけようとしています。
でも、なかなか簡単にいかないことも多々あります‥
たとえば、あまり美味しくなくて気が進まないのに、つい「せっかく買ったから」と食べてしまったり(笑)
あるいは誰かと一緒にいるとき、相手に意識が向くあまり、どうも自分が自分から離れていってしまっているような感覚があったり。(それは人と話しながらご飯を食べているときに、会話に意識がいって、つい「ただ物を口に運んでしまっている」ことがあるのと同じようなものです。w)
でも、今回のことで、「自分の中心にいる」ということがどういうことなのかが、リアリティーある体感をもって、より深まった。
冒頭の記事で、自分が何かを発するときに、そこに「相手を動かそう」という意図が潜んでいないかどうか、そして本当に「人を”自由”にする」ことができるかどうかということについて書きましたが、
”自分自身の問題”として、そんなことに向き合ってきた僕にとって、いわば1つの仕上げ作業として、「自分から出てしまう」という反対からのアプローチで「ただ立つ」ことを見せてもらったことで、このひと言は、これ以上なくストンと来るものがあったわけです☀️
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「ズレていることを通して、ちょうどの位置を知る。」
「そうではないことを通して、それがどういうことかを知る。」
人が何かを本当に理解するというのは、実はそういうことではないかと思っています(^^)
簡単にいえば、「失敗によって、初めて人は本当に知る」ということで、それについては僕が主宰してきた「実践的なアクティビティを通して、さまざまなことを分野横断的に学ぶ」ことを提案している『未来の学校プロジェクト』の教室レポートにも少し書いています。
究極的な例ですが、「あなたは完全です」ということをただ説かれたとしても、その”正しい”言葉からは、それが意味する本当のところを知ることはできないわけです。
そのことを本当に知るには、そうではない状態、つまり「完全ではなく、いろいろなレベルでのいろいろな”制約”を抱えた状態」を体験し、くぐり抜けることを通してしか、たどり着くことができない。
それが”完全なる源”から、僕たちを含むすべての存在が分かれ出て、それぞれの意識の観点から、この《世界》というものを体験している「存在の理由」なんだと、今の僕は思っています。
そしてだからこそ、僕たちは一番”高い”場所から、一番”低い”ところまで下って、そして一巡してまた元の場所まで戻っていくという「旅」を、実際にしているわけです。
(注:これはただ、今このときの僕が観ている場所から、自分という「存在」や「世界」についての風景(=認識のしかた)を書いているだけです。共感することも、批判・否定することも、すべてが許されている自由です☀️)
いろいろな準備を経て、「意識がどこにあるかを、自分のなかで動かす」ことに、ぼちぼち取り組んでいく頃かな‥ と思ってきていた中で、今回図らずも「自分自身のあり方」や「自分(意識)がいる場所」について、体感的にストンと得られたのは、本当に大きなことでした!
そして、この感覚を日常のなかでさらに磨いていくことは、これから先の大きな”宝”になると感じています(^^)
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ちなみにこの日、僕がこの神社に行くことになったのは、セラピスト/ヒーラーという面をもつ妻の存在がありました。
本当はこの日、僕はこことは違う別の神社に行こうかと、朝から思っていました。
でも「今日どこにいくか」を、妻にキネシオロジーという手法を通して”訊いた”ところ、この神社に行くことになったのです。
そして起こったのが、上に書いたことでした☀️(笑)
キネシオロジーとは、簡単に言うと、自分の心や体をクリアにするためのヒーリング調整や、自分に必要なもの・ことにエネルギー的にアクセスする1つの技法です。
“誰か”ではなく、ただ自分自身に聴くのが最大の(?)ポイントで、よくある言葉で言えば「からだはすべてを知っている」ということですね!
葉っぱと、足もとには木の実の殻。
もし何の木かわかる方がいましたら、教えてください(^^)
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読んでいただいてありがとうございます!
インスタグラム(@atsmz33)などもやっています☀️
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!これからも、いい記事を届けていけるよう励みたいと思います🤗⤴︎