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私は私のままで

このエッセイは広汎性発達障がいをもつ私の経験談を綴ったものです。
胸の内。辛かったこともいっぱいあったけれど、約19年間生きてきて、今私自身とどう向き合っていこうとしているのかなどを書きました。
少しでも私の言葉が勇気に繋がりますように。
私は発達障がいを持つ人や御家族の味方です。

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『個性』ってなんだろう?

発達障がいを持って生まれた私は
『それが貴方の個性だよ』と言われることが多くて辛かったんだ。

みんながあたたかい眼差しで言ってくれたからそれが優しさなのは知ってたけど。

でも個性って言葉だけじゃ片付けられないよ。
私だってみんなと同じように『普通』に生活したかったのに……

私がはじめて特別支援学級に入ったのは
小学1年生の頃だった。
クラスの中には大きなブランコや小さなアスレチックがあってまるで公園だった。
遊具で遊ぶのは楽しくて毎日充実している気でいた。その頃母は
『あなたが楽しいと思えるように特別支援学級に入れたのよ』
と言ってくれた。

でも時間が経つにつれて私は疑問に思った。
なんでこんな楽しいところなのに交流学級の友達で特別支援学級に入っている子が少ないんだろう?って。

その疑問を抱えたまま小学4年生のときに察しがついた。

今までずっと周りが私のことを特別に扱っていたこと。
苦手なことがあるとバカにされてきたこと。
私ができることもできない前提ではなしがすすんでいったこと……

訳がわからなかった。
苦手なことがあるのも得意なことがあるのもみんな一緒のはずなのに。 

だんだんと自分を知るのがこわくなった。

小学5年生になった頃
先生に言われた。

『特別支援学級に入りたい人がたくさんいて定員オーバーなの。あなた交流クラスの方に移動してもらえないかな?』

私は発達障がいの中では比較的軽度な方。
だから移動するようにお願いしたのだとわかった。
そのときは特別支援学級を抜ければ特別扱いもバカにされることもなくなるかもしれないって少し信じてた。

でも違った。ここからが地獄のはじまりだった。
交流クラスに入った私は
『あなたは普通の人に戻ったんだからできないことなんてないでしょ?』と言われ嫌がらせを受けるようになった。

読書感想文で賞をとったらカンニングと決めつけ言いふらされ、弟とお揃いのストラップを捨てられた。
いつの間にか私の特徴的な声を笑い真似をされるようになった。

もう何もかもよく分からなかった。
特別支援学級に行けば『軽度だから』と言われ
交流クラスに行けば『1番頭が悪い』と言われた私はもうとっくに迷子になってしまっていた。

中学生になれば解放されると信じていたのに
そこで待っていたのも辛い現実だった。

勉強についていけなかった私は中学ではすぐに特別支援学級に所属した。

合唱コンクールではピアノ伴奏をするのが長年の夢で叶えるためにより一層ピアノにも力を入れた。
わくわく胸を弾ませながら伴奏オーディションにむかった私を待っていたのは音楽教師からの酷い言葉だった。
『あなたには無理』演奏を聞くことなく決めつけられた言葉。ショックだった。
『だってあなた障がい者だものね。』という先生の言葉に笑うクラスメイト。

私きっと過去にすごく悪いことをしたんだ。
だからこんな人生なんだ。地球も宇宙も運命も全部を恨んで泣いても泣いても涙が止まらなくて。


中学2年生。その音楽教師が特別支援学級の担任になったとき、私は不登校になった。
先生が何度か家に来て『学校に行こう』と言われるたびに胸が傷んだ。
その先生が人生ではじめて心の底から嫌いな人になった。


中学3年生。受験の年
高校は特別支援学校に行くことを学校側から強く勧められた。
しかしそこで立ちはだかるのは
支援学校に行けば『高校の卒業資格』がもらえない。中卒になってしまうという現実。
どうしても高校を卒業したかった私は
元不登校の人や発達障がいを持つ人も多く通うという一般の高校の受験を決意した。

勉強が壊滅的+不登校の私にとって受験は戦いになったが、家族に支えられて自分のできる範囲まで頑張ることができた。


こうして念願の学校に通えるようになった年。

高校からは頑張って毎日学校に通い始めた。

この高校ではじめて周りが私を特別に扱わない、バカにしないみんなと同じように接してくれる環境にこれたことが嬉しくてたまらなかった。

そして、そこではじめて私自身を変えるきっかけになるものに出会った。
それはパフォーマンスコース。歌、ダンス、演技などを使って自分自身で表現をする世界だ。
はじめは難しかったけれど表現を通して自分と向き合ううちにこんな私でも舞台の上から大切なものを届けることができる喜びを体感した。

高校2年の頃には留学をし、英語で学年TOP20に入ることができた。
様々な人と触れ合ううちに私が私自身のことをだんだん認められるようになった。

それと同時にはじめてしっかりと将来のことを考えるようになり、先生に『声優の道に興味がある?』と聞かれた。

声を真似られ笑われた経験があるから
すぐに受け入れることは難しかったけれど、
もしかしたら私の声だからこそ伝えられることがあるのかもしれない。
高校で出会ったパフォーマンスも続けられるし、
大好きなピアノが弾けるような声優を1度本気で目指してみようと思うことが出来た。

こうして充実した高校生活を終えて今学校で声優になる為のいろんな技術や表現を勉強している。

ここまでいろいろなことがあったが、今夢に向かって本気で挑めていること、様々な友達に囲まれながら日常が過ごせていて私はとても幸せだ。

そう思えるのは家族、ずっと周りで支えてくれた人達のおかげ。本当にありがとう。

それでもやっぱり何故発達障がいを持って生まれてきたのかなんてわからないし、
ふとしたときに普通でありたかったと思うことはある。
『普通』ってなに?って疑問は永遠つきもののなのかもしれない。

でもね、今まで特別支援学級で過ごしていく中でたくさん発達障がいの友達に出会ってきて思うことがあるの。
みんな感性豊かな素敵な仲間だってこと。
その友達のおかげで気づけなかった大切なことに気づくこともあった。
そしてみんな障がい者であることを理解しているからこそちゃんと自分なりに向き合っていた。

今になって思う。
私ももっと前を向かなきゃなって。

発達障がいが個性って言葉が100%受け入れられるわけじゃないけれどそうなのかもしれない。

実は中学生の頃の伴奏のオーディション
あの後先生に私のことアピールして長期休みに誰よりも練習したら伴奏者になれたの。

それでもあの音楽教師は私のことを100%認めてくれるわけじゃなかったから苦しんだのは事実だったんだけど
1ミリでも認めてもらうこと、私できてたんだよね。

だから発達障がいだからできないなんてのは嘘。
ありえない。そんなこと言う人はバナナの皮で転んじゃえ!!!3ヶ月間げりぴーで苦しめ!!!って思う。

それでもたまに考えてしまう。
私がもし発達障がいに産まれてなかったら私も特別扱いしたりバカにしたりしてたのかもしれない。
知らない間に人を傷つけてたかもしれないって。

発達障がいじゃなかったらわからなかった。
辛いことも苦しいことも
今こうやって思い出して文章かいてるだけでぶわーって涙が溢れてもう二度と思い出したくなかったって思ったけど、
この経験があるから
私が発達障がいにうまれたからこその
『今』なんだよね、きっと 🌷

壁なんて作らずにみんなで手と手を繋いで作れる世界で溢れたらいいな。

それって障がいの差別だけに言えることじゃないよ。

例えば精神疾患を持つ方や黒人のことも
ユダヤ人のことも……!!

みんなみんな同じ生物なんだから
仲良くしたい。

それってすごーく難しくて頭むずむずしちゃうけど、
''HELLO''ってちょっと言ってみるだけでもいいんだと思う。そういう小さな積み重ねでもっともっと素敵な未来が生まれていくって信じてる。
こんな長々と語ってる私はある人にとったらかなりのクソガキかもしれないけれど、この言葉が誰かに届きますように。



🌟 より多くの人が『私は私のままでいい』と思えるように 🌟









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